第一部『平家物語』への招待 1
『平家物語』の成立と作者 2
『平家物語』の構成と内容 8
『平家物語』と語り―平家琵琶と琵琶法師 13
『平家物語』の諸本 23
第二部 物語の鑑賞 35
巻第一 34 巻第二 45 巻第三 56 巻第四 68 巻第五 78 巻第六 87 巻第七 96 巻第八 106 巻第九 117 巻第十 129 巻第十一 140 巻第十二 152
『平家物語』合戦地図 104
第三部 物語の登場人物 161
有王 安徳天皇 今井兼平 梶原景時 熊谷直実 後白河院 西光 斎藤実盛 佐々木盛綱 佐々木高綱 佐藤嗣信 佐藤忠信 俊寛 平清盛 平維盛 平貞能 平重衡 平重盛 平忠度 平忠盛 平経正 平資盛 平時忠 平知盛 平教経 平教盛 平通盛 平宗盛 那須与一 平盛俊 平康頼 平頼盛 高倉天皇 滝口入道 藤原景清 藤原邦綱 藤原実定 藤原成親 源範頼 源行家 源義経 源義仲 源頼朝 源頼政 以仁王 文覚 六代 祇王・祇女 祇園の女御 建礼門院 小督 小宰相 平維盛の妻 千手 二位の尼 大納言典侍 巴 二代の后 仏御前 横笛
第四部 物語の背景 201
『平家物語』の舞台 202
『平家物語』の思想―「ほろび」と「あわれ」の文学 211
軍記物語の系譜 221
武具と装束 228
コラム 水軍と壇の浦 234
第五部『平家物語』の残したもの 235
『平家物語』と能 236
『平家物語』と浄瑠璃・歌舞伎 243
平家落人伝説と史跡 251
平曲相伝の系譜 259
『平家物語』と絵画 260
『平家物語』関係書一覧 264
索引 272
はじめに
わが国には「語り物」という芸能の流れがある。その源流に位置しているのが『平家物語』である。室町時代(十四世紀)以降、能や文楽や歌舞伎が「語り」という表現によって人々の心をとらえてきた。それら諸芸能の源泉が「平家」なのである。和歌や漢詩が吟詠されることによって享受されていた音楽的伝統が、「平家」を語る音楽的口頭伝承の誕生の呼び水になったかも知れない。
琵琶という楽器の伴奏によって盲目の琵琶法師が語ったのは、平忠盛から清盛、重盛、維盛、六代へと流れた平家六十余年の興亡の歴史であったが、その中心をなすのは約二十五年にわたった平家の栄華と滅亡の哀史であった。目に文字を持たない多くの民衆はもちろんのこと、教養ゆたかな貴族たちまでもが、好んで人間無常の「平家」の物語に、わが事のように身につまされて耳を傾けた。そうして『平家物語』は国民的叙事詩となり、絵巻物にも仕立てられて、その後の芸能や文学や絵画に多彩な題材を提供し続けてきたのである。
本書は平家一門、または源平盛衰史とも呼ぶべき『平家物語』のすべてを、できるだけわかりやすく案内するために編まれた。全巻におよぶ「平家」の梗概(ダイジェスト)を柱に、多角的な側面から解説を加え、図版を多用して理解を助ける工夫もした。本書によって一人でも多くのかたが、「平家」開眼を果たしていただけるなら、これほど嬉しいことはない。
2007年1月
小林保治
[コラム] 水軍と壇の浦
寿永(じゅえい)三年(1184)二月、源義経は夜討ちをかけて三草山の平家を破り、鵯越(ひよどりごえ)の一の谷を攻略した。義経軍に破れた平家は屋島におち、かくて元暦(げんりやく)二年(1185)三月二十四日卯(う)の刻、壇の浦合戦の火蓋(ひぶた)が切って落とされた。戦場が西国に移ってからは、瀬戸内海を拠点していた水軍や制海権の掌握が合戦のゆくえを左右する重要な鍵となっていった。古代以来、瀬戸内海で活発な活動をしてきた水軍には、熊野の浦々を統括(とうかつ)する熊野水軍、平氏の制海権を支えていた阿波水軍、伊予の河野水軍などがあった。
河野氏と清和源氏とは、源頼義以来の血縁関係のある親しい間柄であったから、河野水軍は源氏方の水軍の主要な一角として戦った。熊野別当(べつとう)が統括する熊野水軍は、新宮を拠点とする新宮別当家と、田辺を拠点とする田辺別当家という二つの有力な家に分かれていた。新宮別当家は源氏と血縁関係があったが、一方の田辺別当家は平氏との関係が深く、清盛は平治の乱に際し、田辺別当家の湛快(たんかい)の子湛増(たんぞう)らの支援を受けてもいる。しかしその後、平氏に背き、壇の浦の合戦で湛増は源氏に合流して戦う。
かくて瀬戸内海の水軍のうち、源氏方に参加したのは伊予の河野水軍と熊野水軍であった。それに対し、阿波水軍は壇の浦の合戦で、三百艘(そう)の船を率いて、平氏水軍として奮闘した。しかし、戦闘途中に阿波水軍を統括していた阿波民部成能(あわのみんぶしげよし)が源氏方に寝返ってしまう。そして、これを機に西国の兵たちが次々と源氏方に転じ、はじめは潮流も手伝って優勢であった平家が、たちまちに形勢逆転、源氏の大勝利となったのである。
正盛以来、瀬戸内海の海賊鎮圧に功績を挙げ、海の権力を掌握することに血道を上げてきた平氏を滅亡へと決定付けたのは、彼ら水軍の動向であったといっても過言ではない。くしくも壇の浦において水軍は、平家にとって仇(あだ)となったのであった。
見本原稿
小督(こごう)一一五五(久寿二)~?
小督局、小督殿ともいう。父は権中納言藤原成範(しげのり)、父方の祖父は平治の乱で横死した通憲(信西入道)。成範の母朝子は高倉院の乳母であった。その祖母の関係から高倉院に出仕したらしい。高倉院の生母滋子に仕えた女房の日記『建春門院中納言日記』には、承安四年(一一七四)三月、法住寺殿に行幸した高倉院に付き添った十八歳の女房小督がその美貌で人目を引いたことが記されている。「小督」の呼び名は、父の成範が左兵衛督(さへえのかみ)であったことによる。成範は桜花を好み、邸のまわりに桜を植えてめで、桜町中納言と呼ばれた。また父の通憲から箏(そう)(琴)の伝授を受けていた名手で、小督も成範から手ほどきを受けた箏の名人であった。
治承二年(一一七八)六月、高倉院第一皇女範子内親王(後の坊門院)を生んだのち宮仕えをやめ、翌年の冬、出家した(『山槐記』)。元久二年(一二〇五)閏七月二十一日、藤原定家は嵯峨に住む尼の小督の病床を見舞っている(『明月記』)。その後まもなく没したのかも知れない。
『平家物語』では、「中宮ノ御方ニ小督殿トテ勝レタル美人、箏ノ上手候ハレタリ。主上夜々召サレケリ」(屋代本、巻三)とか、「主上(葵の前への)恋慕の御思ひにしづませ給ふを、中宮の御方より、なぐさめまゐらせんとて、小督殿と申す女房を参らせらる。桜町の中納言成範の卿の御むすめ、冷泉の大納言隆房の卿のいまだ少将なりしとき、見そめたりし女房なり」(百二十句本、巻六)などと、小督を中宮・徳子付きの女房として扱っている。
物語でのクライマックスは、嵯峨野で高倉院の意向を受けた仲国「なかくに」に探し出される場面であろう(巻六)。大納言藤原隆房と高倉院という二人の娘聟を奪う憎い女として自分を宮中から追放しようとしている平清盛の怒りを知った小督は、内裏を逃れて嵯峨野に身を潜める。中秋の名月の夜、馬を駆って嵯峨野に赴いた仲国は、明月に誘われて弾く小督の琴の音をたよりに、ついにその隠れ家を探しあてる。
能に「小督」、御伽草子に『小督物語』がある。
梶原景時 (かじわらかげとき) 生年未詳~正治二年(一二〇〇)
通称、梶原平三。『三浦系図』では、高望王(たかもちおう)の子、平良文(たいらのよしぶみ)の曾孫、鎌倉権大夫景通(ごんだゆうかげみち)の子景久{かげひさ}が相模国梶原郷(鎌倉市)に居住し、梶原氏を名乗った。その孫、景清(かげきよ)が景時の父に当たる(『尊卑分脈』では、桓武平氏良茂[よしもち]流)。治承四年(一一八〇)の石橋山合戦では平家方に属し、山中に遁れていた頼朝を発見しながらも温情をかけて見逃した(『吾妻鏡』、長門本、源平盛衰記)。その後、頼朝方に参じた。木曾義仲討伐や一の谷合戦では源範頼軍に属し、侍大将として活躍した。一の谷では敵陣に深入りして危うく討たれそうになっていた嫡子景季(ちゃくしかげすえ)の救出に向かい、「鎌倉の権五郎(ごんごろう)景正{かげまさ)が末葉(ばつよう)、梶原平三景時、一人当千の兵とは知らずや」と堂々たる名乗りを上げ、敵中に突入して景季を助けた(巻九「梶原二度の駆」)。その後、逆櫓(さかろ)の争論(巻十一「屋島」)や壇の浦での先陣問題(同「讒言梶原」)で義経と対立し、のち頼朝に讒訴(ざんそ)して義経の鎌倉入りを阻んだ(巻十二「腰越」)。義経と関わらないところでは、頼朝に堂々と抗弁する平重衡{しげひら)の姿に「あはれ、大将軍や」と落涙したり(巻十「重衡東下り」)、重衡に丁重に接したり(同「海道下」)する好人物。京都の公家社会とも交流があり、貴族的な教養をもち、歌道にも通じていた。「文筆を携へずと雖も、言語に巧みの士なり」(『吾妻鏡』)、つまり弁舌の立つ人物で、頼朝に重用され、幕府では侍所所司・厩(うまや)別当となり権勢を振るった。正治元年(一一九九)十月、結城朝光(ゆうきともみつ)に叛心ありと将軍源頼家に讒訴したことが裏目に出て、有力御家人六十六人の弾劾を受けて失脚。御家人たちから、「凡そ文治以降、景時の讒により命を殞(いん)し、職を失ふ輩(やから)、あげて計(かぞ)ふべからず」(『吾妻鏡』)と非難された。翌年正月、甲斐の武田有義を将軍に立てようとの謀叛を企てたが、駿河国狐崎(きつねがさき)(静岡市清水区)で敗死した。当地に梶原堂がある。
有王 (ありおう) 生没年未詳
世系等は不明(長門本では、越前国水江庄の黒居三郎の子とする)。幼少の頃から法勝寺執行である俊寛僧都の「童」として召し使われた。俊寛が鹿谷事件に連座して配流された後、都に残された家族の世話をするなど、〈忠〉を貫く人物として描かれている。治承三年(一一七九)二月に俊寛の嫡男が、また三月に俊寛の妻が亡くなったのを知らせようと、唐船の四月の出航が待ちきれず三月末に都を出るというところに、主君俊寛に対する有王の格別の思いが窺える。俊寛が有王を「不便(ふびん)(憫)に」思う心情と共鳴した、相互の絆の強さといえる。物語の中での有王の役割は、俊寛に待望の都の便りをもたらたす存在であったが、その内容は、残酷にも一家断絶を知らせるものだった。しかし、そのことが俗世への妄執を断ち切る機縁となるので、有王は俊寛を往生に導く役割、すなわち救済者であるといえる。そして、有王自身も、俊寛の死を機縁として出家する。そのような、仏教的な救済の回路が、ここには仕組まれている。有王は、俊寛の遺骸を荼毘(だび)に付し、遺骨を高野山奥の院に納めた。その後は、高野聖{こうやひじり}の別所として知られる蓮華谷{れんげだに}で出家し、諸国七道を廻(めぐ)る聖となった。いつしか、高野聖の多くが俊寛の鬼界が島での惨劇と往生を語るようになり、その語り部として複数の「有王」を称する聖が生まれたとされる(柳田国男説)。
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