1920年(大正9年)東京生まれ。東京文理科大学国語国文学科卒。東京教育大学教授・成城大学教授を経て現在にいたる。。国文学者。著書に『新編芭蕉大成』(編者代表)『俳句と俳諧』『歌仙の世界』『松尾芭蕉』『俳文学大辞典』(共編)など。
1949年(昭和24年)山口県生まれ。東京教育大学大学院文学研究科修士課程修了。現在東京学芸大学教授。共編著に『新編芭蕉大成』。
尾形 仂 第一部・全編の校訂
嶋中道則 第三部・全編の校閲
野々村勝英 第二部「俳論」・第三部・第四部(京都教育大学名誉教授・前大阪工業大学教授)
中野沙恵 第二部「書簡」・図版選定(聖徳大学教授)
宮脇真彦 第二部「連句」「紀行文・日記」(立正大学助教授)
本間正幸 第二部「発句」(成城学園高等学校教諭)
安田吉人 第二部「紀行文・日記」「俳文」・第四部(成城学園短期大学部非常勤講師)
・ただし、第二部「発句」「連句」は編者・尾形が全面的に書き改め、その他の諸編も、第三部「芭蕉語彙辞典」以外は大幅な加筆補訂を施した。
序…3
第一部 芭蕉への招待…9
第二部 芭蕉鑑賞事典…27
発句…29
連句…69
紀行文・日記…82
野ざらし紀行/84 かしまの記/89 笈の小文/92/更科紀行/106 おくのほそ道/109 嵯峨日記/137
俳文…139
「乞食の翁」句文/140 笠はり/142 幻住庵の記/144/栖去の弁/151 許六離別の詞(柴門の辞)/152/
閉関の説/155
書簡…159
曲翠(曲水)宛書簡/160
俳論…165
去来抄/166 三冊子/173
第三部 芭蕉語彙辞典…177
第四部 資料編…237
芭蕉をめぐる人々…238
芭蕉全発句一覧(季語別)…244
芭蕉略年譜…267
参考文献…274
芭蕉紀行足跡図…276
本書に掲載した図版目録…266
索引…286
凡 例
一
本文は『新編芭蕉大成』に拠ったが、適宜、漢字・仮名を当て替え、送り仮名を加えるなど、読みやすい形に改めた。また、第二部「芭蕉鑑賞事典」においては、底本のもとの形は( )に入れて右傍に示し、底本にない文字を補った場合には、その文字の右に・印を付すなど、底本の表記を復元できるよう配慮した。ただし、第三部「芭蕉語彙辞典」の引用本文においては、煩瑣を避けるため、底本のもとの形を示すことを省略した。
二
他編に重出する発句等については、↓を付して参照する編を以下の略号を用いて示した。
「発句」↓□発(句番号) 「連句」↓□連
「紀行文」↓□紀 「俳文」↓□文
「日記」↓□日 「書簡」↓□書
「俳論」↓□論
三
第二部「発句」では、本文の下に( )を付して 出典を示し、切字は□切、季語は□季の略号で示した。また、本書における通し番号を付した。
四
第二部「連句」では、季語を□季の略号で示し、句の番号をたとえば、初折の裏一句目は(ウ1)、名残の折の表一句目は(ナオ1)のように示した。
五
第二部「紀行文・日記」「俳文」「俳論」においては、「発句」に重出する句の現代語訳は省略し、「発句」 の句番号を示すにとどめた。
六
第三部「芭蕉語彙辞典」においては、芭蕉の作品に頻出する語、芭蕉特有の用語が見られる語、芭蕉を理解する上で重要と思われる語等を基準に項目を選定した。門人たちが記録した芭蕉の遺語も、この中に含めてある。記述にあたっては、見出しを現代仮名づかいの仮名表記で掲出、次に〔 〕を付して漢字および古典仮名づかいの表記を掲げた。また、同辞典内に立項されている項目には*、参照項目には↓を付して示した。
芭蕉への招待(抜粋)
芭蕉の現在
平成十二年(二〇〇〇)六月二十一日(木)の『朝日新聞』紙上に発表された「この一〇〇〇年“日本の文学者”読者人気投票」の結果によれば、一位夏目漱石・二位紫式部・三位司馬遼太郎、以下、宮沢賢治・芥川竜之介に次いで、芭蕉は六番目に挙げられている。ちなみに、明治以前の作家で五十位以内に入っているのは、十四位清少納言・二十九位小林一茶・三十四位近松門左衛門ら七人にすぎないから、現代人とは馴染みの薄い古文で書かれた文学の作者としては、芭蕉の名は現代人にとって断トツに親しみ深い存在として心に刻みつけられていると見ていいだろう。
一方、同年の夏、八月二十五日から三十日にかけて、ロンドンとオックスフォードを中心にイギリス各地で「世界俳句フェスティヴァル二〇〇〇」が開催されたが、その実行委員長で英国俳句協会副会長の滝口進氏が、一九九七年の秋、その下準備を兼ねて来日した折、次のような話を聞いたことがある。
――イギリス人のハイク(英語による)は、思想的・哲学的なものが入っていないと満足せず、論理とか思考とかを容れない単なる感性の詩として完結することの多い日本の俳句に対しては、とかく反論を提出したりすることもあるが、その場合、芭蕉がこう言ったというと、黙って引っ込む、つまり、彼ら英国ハイジンにとって、芭蕉という名は絶対的権威をもって受け止められている。云々。――
このことは、英国人の間における芭蕉に対する高い評価の一端を示すものといえる。
海外におけるハイク事情に詳しい佐藤和夫氏によれば、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の句の外国語訳は百種以上に上るとのこと。同じく星野恒彦氏によれば、『おくのほそ道』についても九種の英語訳のほか、露・仏・独・スペイン・ポルトガル・イタリアの各国語訳があるよしで、私自身もドイツ語訳や中国語訳や韓国語訳などにかかわった、それぞれの国の研究者たちから、翻訳の苦心について聞かされたことがある。このこともまた、イギリスのみならず広く世界各国における、芭蕉の文学に対する深い関心と高い評価のほどを物語るものといっていいだろう。
こんなふうに、現代の日本において国民的人気を集め、広く海外においても高く評価されている芭蕉について、正当な認識をもった上で、これを現代に生きるそれぞれの立場からとらえ直し、二十一世紀の明日に向けて伝えてゆくことは、今日の日本人に課せられた、いわば責務といってもいい。
本書は、そのための基本的な入門書として、芭蕉の主要な作品と言説を集成し、平易な解釈と鑑賞の手引きを加えて、諸種の参考事項を添えたものである。
初めにまず、芭蕉が現代とは異質などんな時代を、どんなふうに生きたかを展望しつつ、芭蕉の美意識や文学精神、現代とのかかわりなどについて、簡単に述べておきたい。
第二次黄金時代
芭蕉が生きた元禄時代は、井原西鶴や近松門左衛門らが同時代人として活躍し、日本の文学史上、紫式部や清少納言らの女流文学者を輩出した十世紀末から十一世紀初頭にかけての第一次黄金時代に対し、第二次黄金時代に挙げられている(先ほどの「この一〇〇〇年“日本の文学者”読者人気投票」では、近松は三十四位、西鶴は五十位以内にも入っていないが、それはおそらく当時の風俗に密着した文体の難解さによるもので、文学史的価値と人気投票とは必ずしも一致しない)。
芭蕉が、その“旅の詩人”としての生涯を代表する『おくのほそ道』の旅を行ったのは、元禄二年(一六八九)のことで、それはちょうど寛永十年以来五段階にわたって発布された徳川家光による鎖国令が完成した寛永十六年(一六三九)から、五十年後に当たる。
優れた国文学者であるとともに俳句評論家としても知られた神田秀夫氏(一九一三~九三)によれば、日本における文学の黄金時代は、外国との交渉が途絶えてほぼ百年ないし五十年後に出現するという。そういえば第一次の黄金時代は、菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が停止された寛平六年(八九四)から約百年後に将来された。その百年ないし五十年という年数は、ちょうど鍋の中にいろいろの具を入れて蓋を閉ざし、グツグツと時間をかけて煮込むことによって美味な料理ができあがるように、海外から渡来したさまざまな文物が日本の風土の中で消化吸収され血肉化されて、日本独自の文化ないし文学が形成されるまでに要する時間である。海外との交渉の杜絶以来、第一次黄金時代の出現まで約百年かかったものが、第二次黄金時代の場合に五十年に短縮されたのは、それだけ時代の歩みが早くなったせいだろうとのこと。
明治以降は、時代の歩みがさらに早くなったどころか、鍋の蓋は開きっ放しで、グツグツと煮込み独自の味を出すいとまがない。つまり、もう日本には平安中期や元禄時代のような、文学の黄金時代が出現する日は来ないだろう、というのが神田氏の予見だった。
国際化時代の今日、鎖国という条件の実現はあり得ず、またあってはならないが、それにしても近年の日本語の乱れ、衰弱、片仮名語の氾濫、そして日本語の満足な修得もおぼつかない中での英語公用語論といった愚策が冗談ではなく取り上げられようとしている現状を顧みれば、なるほど神田氏の言うとおり、日本文学の黄金時代はもう来ない、といった思いに誘われないではない。
ともあれ、芭蕉は、そうした文学史上きわめて幸運な時代を生き、元禄文学の一翼を担った人物であったことを、まず大きく押さえておこう。とりわけ芭蕉が、第二次黄金時代の担い手たちの中でも、日本の原初以来の長い伝統をもち、各時代文学の軸をなしてきた五・七・五の短詩形の彫琢を通して、日本語の可能性を極限まで追究した作家であったことを銘記しておく必要がある。
出自―天正伊賀の乱
芭蕉は寛永二十一年(一六四四。十二月十六日、正保と改元)、伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂町(現在、三重県上野市赤坂町)に、松尾与左衛門の次男として生まれた。赤坂町は元禄以前の上野城下の古地図によれば「百姓」町と注記されており、江戸期の熱心な芭蕉研究家であった仙台の俳人遠藤曰人が伊賀の所伝にもとづき文政五年(一八二二)に編んだ「芭蕉翁系譜」には、「父与左衛門ハ全ク郷士ナリ。作リ(耕作)ヲシテ一生ヲ送ル」と記されている。
伊賀で松尾氏といえば、思い合わされることがある。伊賀の国は芭蕉が郷里をいつも「山家」と呼んでいるように険しい山国で、有力な戦国大名を出すような地理的基盤がなく、群小の土豪が各地に割拠して侵略し合い、いわゆる伊賀の忍法もその間に練磨されたものという。ところが、芭蕉の生まれる六十五年前(といえば祖父の代ぐらい)の天正七年(一五七九)、織田信長の次男北畠信雄が伊勢に次ぎ伊賀侵攻を開始するや、それまで相反目していた伊賀衆は一致団結してこれを撃退した。
これに怒った信長は天正九年九月、大軍を催し、軍事拠点となる神社仏閣をことごとく焼き払う徹底的な焦土侵攻作戦を展開し、伊賀の地侍たちを殲滅掃討したが、その戦闘のすさまじさは今も伊賀人の語り草になっているという。
これを天正伊賀の乱といい、その一部始終は、伊賀土豪の後裔で上野の民間学者として知られる菊岡如幻の『伊乱記』(延宝七・一六七九稿)に詳述されているが、それによれば、信長に反抗し勇戦した伊賀侍の中に松尾氏の名も見える。
壊滅的打撃を受けた後、天正十年本能寺の変による信長の死を知って、逃亡潜伏先から徐々に在地に復帰しはじめた伊賀侍たちに対し、秀吉の命を受けて伊賀の国主となった筒井順慶の養子定次は、厳しい残党狩りを行ったが、徳川時代に入り、慶長十三年(一六〇八)、伊予今治から伊勢・伊賀二十二万九百五十石(のち三十二万三千九百五十石)の城主となった藤堂高虎は、融和懐柔策を取り、中世伊賀の豪族名家の後裔を無足人(苗字・帯刀を許される無給の武士)の制度に組み入れた。
『伊賀国無足人名前扣帳』の古いものは残存しないが、近世後期のそれには、上柘植に五家、鵜山に三家以下、計十一家の松尾姓が見える。芭蕉の松尾家が無足人待遇を受けたかどうかは古い資料がなく不明だが、生家の規模から見て、無足人クラスの中世伊賀土豪の後裔であったことは確かだろう。
とすれば、芭蕉の血の中には、中世から近世に移る動乱の中で本拠地を追われた敗残者の血が色濃く流れていたことになる。芭蕉の、何の材木の役にも立たず雨風に傷つきやすい芭蕉という植物にあやかったその俳号が示しているような、近世社会における無用者としての自覚と、定住の栖をもたぬ漂泊の人生のよってきたる根には、きわめて深いものがあったといわなければならない。
出仕―俳諧との結びつき
松尾家の次男で幼名を金作といったと伝えられる芭蕉は、たぶん十代の末ごろ、伊賀付五千石の侍大将藤堂新七郎良精の嫡子主計良忠宗正のもとに出仕した。市川柏莚(二代目市川団十郎の俳名)の『老の楽』には、晩年の芭蕉に接した小川破笠の談により役職を料理人と伝え、前記曰人の『芭蕉翁系譜』には台所用人と記している。芭蕉より二歳年長の良忠は、藩祖以来文事を重んじた藤堂家の家風の中で、当時流行の貞門俳諧の宗匠北村季吟を師と仰ぎ蝉吟と号して俳諧を愛好したので、今日芭蕉十九歳の折の発句短冊が残り、二十一歳の折には主従ともに貞門俳書に入集していることからも推測されるように、実質的には俳諧の相手役としての伽として召し抱えられたものであろう。
先ほどの『伊乱記』の著者菊岡如幻の養子で江戸の俳諧師として活躍した沾涼編の俳諧系譜『綾錦』(享保一七・一七三二)には、芭蕉のことを如幻の導きで季吟門に入ったと記している。学校も図書館もない当時、おそらく芭蕉は民間学者・蔵書家として知られた如幻のもとで教養を身につけ、そのことが伽として出仕する機縁となったものと思われる。
芭蕉が新七郎家で名乗ったと伝える忠右衛門宗房の名乗りが、蝉吟から良忠宗正の二字を与えられたものと推測されることからも、蝉吟の寵愛ぶりが偲ばれよう。いずれにしても、新七郎家に仕え蝉吟の相手をしたことが、芭蕉を俳諧と結びつけ俳諧に狂わせる端緒となったわけだから、新七郎家への出仕は、芭蕉の生涯にとってきわめて重要な契機となったものといわなければならない。
しかるに、芭蕉が二十三歳になった寛文六年(一六六六)四月二十五日、蝉吟良忠は二十五歳の若さで没し、十八歳の弟良重が家嫡となった。
芭蕉は蝉吟の位牌を高野山報恩院に納める使者を務めた後、致仕(辞職)を乞うも許されず、ついに無断で出奔して京都に遊学したというのが、後世の伝記作者たちの筋書だが、たぶん芭蕉のような存在は代替わりがあればすぐに解雇の対象とされ、致仕を引き止められるようなことはなかったはずである。それよりも、その後延宝三年(一六七五)に至るまで、芭蕉は貞門時代の諸俳書に、いずれも「伊賀上野住宗房」として入集しているので、家中への出仕の有無は別としても、引き続き伊賀にいたことは確かだろう。
寛文十二年(一六七二)二十九歳の正月、芭蕉の宗房は、当時の流行唄を詠み込んだ自他の発句六十句を左右につがえ、これまた流行唄や流行語を縦横に駆使した才気あふれる判詞(勝負判定の理由を述べる詞)を加えた三十番の発句合を編み、これを『貝おほひ』と名づけて上野の天神社に奉納した。
それは芭蕉の、時代の流行への関心と豊麗な詩藻を示すものではあっても、一部でいわれるような京都遊学や放蕩体験を証するものではあるまい。諸家の日記に知られるように、当時は予想外の情報社会で、都市の流行は風のように伊賀の山国にも絶えず押し寄せていたのである。
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