10歳のころより辞書を読むことを趣味とし、意味が曖昧だったり日常あまり使われなかったりする単語に関する本、Depraved EnglishやInsulting English(共著)などを出版している。
これまで、パリでミュージシャンをしたりサン・ディエゴでゴンドラの船頭をしたりニューヨークで家具運送をしたりしながら、様々な種類の辞書や用語集を読んできた。10年前に『ウェブスター新国際英語辞典』第2版を読破、続いて『ウェブスター新国際英語辞典第3版』も読破した。
現在、大きく古い本に囲まれながらニューヨーク市で生活を送っている。
内容紹介(一部抜粋)
ある月曜の朝、9時27分、『オックスフォード英語辞典』(OED)が僕のアパートに届けられた。僕は、60キロを超える本をどんな人が上まで運んできてくれるのかな」とぼんやり考えていた。すると、僕の予想に反して、非常に朗らかな感じの宅配人が届けてくれた。これから12ヶ月にわたって僕の生活を占拠することになる20巻の本が、今、目の前に届けられたのだ! …… (本書より)
Occasionet(名詞)ちょっとした出来事
…… 人生は、ちょっとした出来事で溢れていて、いろいろな種類のちょっとした出来事とそこで感じる小さな喜びは、ひょっとすると、大きな出来事よりもずっとお祝いに値することなのかもしれない。 (本書より)
序
『オックスフォード英語辞典』(The Oxford English Dictionary(略称 OED))には、「偉大な単語」と呼べるものが数多く載せられている。言い得て妙で、好奇心をかき立て、その上滑稽味を帯びた単語だ。例えば、artolater(パンを崇拝する人)なんかはどうだろう。きっと、これまでに、書物の中でartolater という単語に出くわしたり、人が話しているのを聞いたりしたことはないと思う。というのも、この単語は17世紀以降、ほとんど使われてこなかったからだ。この単語は、OEDの中で見出し語としてあげられてはいるけれど、たとえこの大きな大辞典を持っていたとしても、この単語を見た記憶のある人は、ほとんどいないと言える。
実際、OEDを適当に開いてみて、たまたまそのページにこの artolater という単語が載っている可能性は、およそ 0.0046%にすぎないのだ。これは、自分の子どもがプロスポーツ選手になるのと等しい確率である。
もし、この数ヶ月間机に向かい、辞書を〈読み〉通すという課題に取り組めば、次のようなことが起こると思う。まず、非常にたくさんの単語を新たに覚えることになるということ。次に、視力にかなり悪い影響が出るということ。そして、心がからっぽになってしまうということである。OEDを読むことは、およそ『欽定訳聖書』を二、三ヶ月の間ずっと、まる一日読み続けたり、ジョン・グリシャムの小説をすべて一年以上かけて毎日読み続けたりして、完読することと等しいのだ。そんなことを試みようと真剣に考えるなんて少し頭がおかしいと思うだろう。そう、僕は、大いなる興奮に心を震わせて、そんな試みを実行に移そうと決心したのである。
*
人には、ミニカーや漫画本を収集している人もいれば、明らかにもっと価値があるとわかるもの、例えば、絵画や車といったものを集めている人もいる。そういったコレクションの対象となるものの大半は、通常目に見えて形のあるもの、いくらかの貨幣価値があるものだ。
僕は単語を集めている。
辞書、類義語辞典、様々な分野の用語辞典を全部で1000冊ほど持っていることから、僕を辞書類収集家だと思う人もいるかもしれない。でも、僕は、家に辞書そのものが増えていくことをコレクションとは考えていない。集まった辞書は、あくまでも僕が実際にコレクションをするための道具にすぎないのだ。辞書は、僕のアパートの空間を占める物理的なものでしかなく、僕が本当にコレクションしているのは、頭の中に広がっていくものだ。一日中、ページをめくりながら、尽きることなく、魅力と面白さを感じ、絶えず、「こんな状況を描写するこんな単語があったぞ」と思いを馳せることができる。そう、僕がコレクションしているのは単語そのものなのだ。
僕が単語を収集するのは、友人や同僚をあっと言わせたいからではない。僕は、この10年間、辞書を読んで単語を収集し、ニューヨークで家具運送の仕事をしていた。僕が頭の中に収集してきた単語は、ちょっと遠回しに言うと、その文化的環境にぴったり馴染むようなものではない。友人は僕が趣味で辞書を読んでいることを知っているし、そのオタク的趣味を比較的温かく見守ってくれている。でも、僕の単語収集という趣味に強く感銘を受けたり、関心があったりするわけではない。ガールフレンドのアリックスは、以前、メリアム・ウェブスター社で辞書編集に携わっていた人で、普通の人に比べれば、僕の単語収集に大いに関心を示してくれている(彼女と一緒に住むことになった時、僕は引っ越しの荷物として、埃(ほこり)まみれのぼろぼろの辞書を、壁数面が埋め尽くされるほど持っていったけれど、彼女はなに一つ文句を言わなかった)。それでも、ときどき僕が philoprogeneity と philostorgy がどちらも「子どもに対する親の愛情」を意味するなどと言い出した時は、ちょっといらだっているのではないかと心配になったりもする。つい最近、ちょっとそのことについて彼女に聞いてみたら、「飽き飽きする限界はもうとっくに過ぎている」と言われた。僕はこの言葉をよい方に解釈した。
趣味と呼ばれるものは、概してその大半は役に立たないものだ。街で売られている自学書の多くは、言葉をたくさん覚え、ボキャブラリーを豊富にすれば、出世につながると信じさせようとしているけれど、実際には、ボキャブラリーを豊富にしたところで、親友など得られないだろうし、職場で役に立つようなことはほぼないと言ってよいと思う。むしろ、友人や上司を退屈させる可能性の方が大きく、最悪の場合には、周りを遠ざけることになったり、ちょっとおかしい人と思われたりすることになるのがオチである。
僕が初めて辞書を完読したのは10年ほど前で、それは、1934年に出版されたいわゆる『ウェブスターの第二版』と呼ばれるもの(正式名称は、『ウェブスター新国際英語辞典』第二版(Webster’s New International Dictionary of the English Language, Second Edition))であった。今、目を閉じてみても、その時の様子、ページのにおい、ほんのり黄色がかった色、そして雑に扱うと破れてしまいそうな紙の質感をはっきりと思い出すことができる。僕は、数ヶ月、頭痛やどれほど飲んだかわからない量のコーヒーとともに、a から zyzzogeton(南アメリカのバッタの一種)までを読み通した。結果、僕の頭は単語でいっぱいになってしまい、簡単な文さえ口に出すのが難しくなり、さらに、口から出る言葉は、聞き慣れない単語の変てこりんな組み合わせになってしまった。僕は、「ああ、なんて素晴らしいことなんだ!」と思い、早速その続き、『ウェブスターの第三版』(正式名称は、『ウェブスター新国際英語辞典第三版』Webster’s Third New International Dictionary of the English Language Unabridged)を買いに出かけた。
僕は、それ以来ずっと辞書や用語辞典の類いを読み続けている。古語辞典に方言辞典、俗語辞典に口語辞典、医学用語事典に精神医学事典にいたるまで、様々なものを読んできた。「この単語は前に覚えたぞ。この単語は初めてだ」と読み進めていく作業は、どれをとってもまさに癒しとわくわく感の入り交じった至福をもたらしてくれるものだった。
僕が成果の全く目に見えないこういった活動、シシフォスなことに思いっきり熱中してしまうことを奇妙に思う人もいるかもしれない。もちろん、僕はつゆほども奇妙なことだなんて思っていない。絶対に読み終えることがなく、ずっと気持ちのよいまま永遠に読み続けることができるお気に入りの本があったら、それはどんなに素晴らしいことかを想像してみてほしい。僕にとっては、辞書がそのお気に入りの本なのである。たとえ自分が所有する辞書をすべて読み終える日が来たとしても、僕はまた最初の一冊に戻って辞書を読み始めるつもりだ。そして、そのころには、相当数の単語を忘れてしまっていると思うので、また最初に読んだ時と同じ至福に浸りながら辞書を読むことができると考えている。
*
僕は、この数年間ずっとOEDを読もう、読もうと思ってきた。しかし、なにかにつけて後回しにしてきた。その理由は、まず、読んでしまったら最高の楽しみを失ってしまうのではないかと考えてしまったこと、そして、僕のようなベテランの辞書愛読家でも、やはりOED、その徹頭徹尾、圧倒的な存在感に怖じ気づいてしまっていたことにある。全20巻にわたるOEDは半端な量ではないし、完読するには相当の時間とものすごい集中力が必要とされる。「まず、一度区切ってNまで読んでみよう」なんてことは考えたくもなかった。絶対に、自分自身を「OEDを途中まで読んだ男」なんかにはしたくなかったのだ。
しかし、そもそもこういったことは、辞書を読まずにいる正当な理由とはなりえない。だから、僕はOEDに挑戦するという課題を自らに課すことにした。僕はOEDを読みながら、目を見はった単語、滑稽な単語、古語だが復活を願うような単語、それらをすべてノートに書き取っていった。本書に知らない単語があったとしても、OEDを引けばすべてちゃんと記載されている。もちろん、そのためにわざわざあのばかでかい本をAからZまで通読する必要はないけれど。
もう一つ、OEDを読み始めることに躊躇した理由にここでふれておくと、僕は、OEDが非常に四角ばった単語で溢れかえった非常に堅物なもので、途方もなくつまらないものだったらどうしようかと心配していたのだ。でも、この心配はすぐに無用なものだとわかった。確かに、OEDは壮大な学術的書物である。だからと言って、そのことが、OEDから面白さや魅力を奪ってしまうということにはならないのだ。どうしてall-overish(全身がなんとなく気だるい)なんて単語を扱っている本を読まずにいられようか。また、assy((ロバのように)愚かな)なんていう四文字語を扱っている本に怖じ気づきっぱなしであることも難しいのである。
OED以上に、現代英語の歴史というものを綿密に網羅している辞書はほかにない。OEDは、英語という言葉の繁栄から陰の部分まで、荘厳な観念から時代が作り出した奇想まで、今日の英語を作り出した「英語の歴史のすべて」を描き出そうとしている。最初のAの項目を読むだけでも、agathokakological(善と悪からなる)のような気高い単語に遭遇する。そうかと思えば、addubitation(疑いの気配)のような上品にぼかしがかかった単語に目が留まることもあるし、antithalian(喜びや歓喜とは逆の)のような奇妙な単語に出くわすこともあるのだ。
僕は本書を世界で最も偉大な辞書への指南書と考えている。また、本書は、「興味深い」と詠嘆してしまった単語、「素晴らしい」と唸うなった単語をノートに書き写しながら、この膨大で手強い辞書を何ヶ月間にもわたって読み続けるとどんなことが起こるのか──苦痛、頭痛、やがては正気を失う──を示した報告書でもある。
もし、ものすごく有用であるにもかかわらず、忘れられて、見事なまでに非実用的になった単語なんかに関心があるなら、ぜひ本書を読み進めて、単語を愛した男の奮闘を楽しんでほしい。読者のみなさんに代わって、僕がOEDをAからZまで通読してみました。
見出し語に関する注記
各章で取り上げられている見出し語は、すべて、1989年にオックスフォード大学出版局から出版された『オックスフォード英語辞典』第二版から選び出されたものであり、単語につけられた定義は、特に文中にことわりがない場合、僕がつけたものだと考えてほしい。もし誤りがあった場合、それは僕の責任に帰するものである。
選び出された単語は、必ずしも、実際にそこで定義されたように使われているというわけではない。記載された単語には、使われなくなってからもう数百年もたつようなものも含まれているし、また、いくつかの意味の中から一つだけをピックアップし、かつ、そのピックアップした意味が、その単語の主要語義ではない場合もある。
また、本書では、見出し語の発音に関する記述を行わなかった。これにはいくつかの理由があるのだけれど、主な理由は、OEDにおいて、日常的に使われなくなって数百年たつような単語の発音は説明されていないということにある。OEDに説明が加えられていないのは、編纂者がそういった単語をどのように発音するのかがわからないという、単純だが適切な理由によるものなのだけれど、当然、僕にもわからないし、僕が発音に関してここで大胆な憶測をするのは、非常に差し出がましく、はばかられることである。
僕は、各章で取り上げた単語を、新たに日常会話で役立つものというより、ちょっとした骨董品、つまり、「こんなに変わった可愛らしい単語が存在していたんだ!」なんてわくわくさせてくれるものとして楽しんでいる。自分のボキャブラリーを豊かにして、他人を驚かせたり、楽しませたりするという使い方もあるかもしれない。きっとなんらかのリアクションが返ってくると思う。また、日がな一日、単語を頭の中で静かに踊らせるのもよいかもしれない。単語を楽しんでいる限りにおいて、その楽しみ方は自由なのである。
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