森住 衛 大阪大学・桜美林大学名誉教授
2018年05月09日
Web版の本欄の最初の語彙として,「ことば」を取り上げる。「ことば」に当たる語彙は,英語ではlanguage, word(s), speech, tongue, dialect などが思い付く。日本語では「言語,言葉,ことば,コトバ,言,詞,辞」などが挙げられよう。今回,取り上げるのは,このうち,< words vs.ことば >である。ただし,この “words” には,language, speechなどの意味を合わせ持たせて,ことばには「言語」なども含ませて,英語圏の人たちと日本人の<words vs.ことば>全般に対する意識や態度,思いを取り上げる。もっとも,このテーマは非常に大きいので,今後,機会を見て2回目,3回目を加えることになるだろう。1回目の今回は,日英両国民のいわば<words vs.ことば>観を見てみたい。特に,wordsは聖書に出ている言語観に,ことばは万葉集の言霊思想について触れる。なお,使用する聖書の英語版は,The Jerusalem Bible (Darton, Longman and Todd, 1969)で,和訳は,『聖書』(日本聖書協会,1989)である。
まず,周知の聖書の「ヨハネ伝」の冒頭(John 1:1-2)から引用しよう。
In the beginning was the Word, the Word was with God, and the Word was God.
He was with God in the beginning.
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は
初めに神と共にあった。
上の英語の最後の文のHeはthe Wordを指している。この<ことば=神>の考え方は,上記の引用の少しあと(John 1:14)にも次のように書かれている。
The Word was made flesh, he lived among us, and …
言は肉となって,私たちの間に宿られた。
これらの引用には,神のことばを信ぜよ,という信仰上の教えが入っているが,これが前提になって,一般には,ことばは人間にとって神と同じように尊重され,大事にされなければいけないという考えに至っている。この考え方が,大多数の英語国民の言語生活の基本を形成し,いろいろな言語意識や言語観を育成している。たとえば,ことばにしないと互いにわかり合えないというのは自明の理になっている。そのため,英語国民は,おしなべて,日本人よりもよく喋る。自分の意見を言う。手紙に書く。黙っているのは人間的でない。黙っている方が負けである。黙っているとおろかだと思われる。極言すると,相手が黙っていると殺意を感じるという。
さらに,マタイ伝(Matthew 4-4)では,イエスは次のように言ったと書かれている。
Man shall not live by bread alone, but by every word that proceeds out of the mouth of God.
人は パンだけで生きるものではなく,神の口から出る一つ一つのことばで生きる。
マタイ伝のこの内容も,人間にとって言語がいかに大切ということを物語っている。人間は何かを食べなければ生きていけないが,神の発することばを糧にして生きているということである。not 〜 but …の文型を考えると,食べ物よりもことばの方が大切だという考え方である。
以上のwordsに対する欧米の特にキリスト者の思いに対して,日本人のことばに対する思いや意識はどうであろうか。英語の場合には聖書を引用したので,日本語の場合も宗教の教典などを対象にしてみる。まず,仏教だが,仏典などをひもといても,管見にして,聖書のように明確にことばについて語っていない。たとえば,『空と無我 –仏教の言語観』(定方晟,講談社)には,「仏教の言語観」と副題に言語観と銘打ちながらも,仏教の「空」や「無我」の説明や悟りの概念を説明していて,仏教者がことばをどのように捉えていたかについては触れていない。むしろ,ことばに関係させて日本人の心に触れているのは,つまり,日本人の言語観について言及しているのは神道だと思われる。それは,万葉集の歌の中に,「神」と「言霊」という語が合わせて使われているからである。神は,仏教の仏と区別されて,神道に関係している。「言霊」とは,「ことばにあると信じられている呪詛的な力」である。
万葉集に,以下のような山上憶良の長歌と柿本人麻呂の反歌に出てくる。両者とも「日本は言霊が幸せをもたらす国」としている。
・神代より言ひ伝て来(け)らくそらみつ倭の国は皇神(すめかみ)の厳(いつく)しき国言霊の幸(さき)はふ
国と語り継ぎ言ひ継がひけり(万葉集894)
・敷島の大和の国は言霊の幸(さき)はふ国ぞ真幸(まさき)くありこそ(万葉集3254)
このように,ことばの魂が行き交う国だと言っているが,言霊が持つ呪力は相手をおとしめたり,不幸にしたりもするが,これが,自分に返ってくることもある。このため,ことばを大切にしながらも,あるいは,大切にするあまり,言挙げしない(ことばにしない)ようになるという現象が出て来た。これが以下の歌の前半である。
・蜻蛉島(あきづしま)日本(やまと)の国は神からと言挙(ことあげ)せぬ国然(しか)れどもわれは事上(こ とあげ)す
・葦原の瑞穂の国は神ながら事挙(ことあげ)せぬ国然れども辞挙(ことあげ)ぞわがする
最初の歌は相聞歌で「我が国は言挙げせぬ国と言われているが,(恋人への思いを)あえてことばにする」という趣旨の歌である。二番目は遣唐使への餞別歌である。これも「言挙げしない国であるが,あえて別れのことばを口にする」という意味である。いずれも,「言挙げ」すると言う歌であるが,この前提に「言挙げ」しない社会であるという決まりのようなものがある。これが,日本人はあまりことばにしない,しゃべらない,自分の意見を言わないという習慣を形成する要因になってきたのではないだろうか。
金田一京助は『言霊をめぐりて』(八洲書房,1944)で,言霊を「言うとそのことが実現する言霊」「表現されている詞華の霊妙の言霊」「祖先伝来のことばに宿る言霊」3つに分類しているが,このいずれもが,ことばを神霊化して恐れ多いものとする考え方である。日本人がことば少ない傾向にあるのは,このことばへの畏敬が根底にあると思われる。
これが,別の形で表れているのが忌み言葉である。婚礼などの際に,「失敗する,別れる,終わる,切る,重ねる」などの表現は縁起が悪いので避ける。これは,ことばに出してしまうと言霊思想で,そのようになって「受験に失敗しても」「二人が別れても」「親が死んでも」などというと,縁起でもないこと言わないで,と相手に言われたり,自分でもふと不安になったりする。この考え方が,何かの議論のときに,もしこう言うと,ほんとにそうなるかもしれない,という不安があり,ことば少ないことになり,結局は,自分の意見を言わないということになる。このために,日本人は言霊思想を脱しない限り,言論の自由を持ち得ないとする考えもある。
森住 衛
もりずみ まもる
大阪大学・桜美林大学名誉教授
大阪大学名誉教授・桜美林大学名誉教授。関西外国語大学大学院客員教授。大学英語教育学会および日本言語政策学会の元会長、日英言語文化学会の現会長。専門は英語教育学・言語文化教育学・外国語学。特に、異言語教育を通してどのような言語観・文化観・世界観が育つかに関心がある。監修・編著などに『言語文化教育学の可能性を求めて』(三省堂)、『単語の文化的意味』(三省堂)、『大学英語教育学』(大修館書店)、『言語文化教育学の実践』(金星堂)、『外国語教育は英語だけでよいのか』 (くろしお出版)などがある。中・高の検定済教科書New Crown、Exceed (三省堂)の元代表著者、My Way (三省堂)の現代表著者。
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