三省堂のWebコラム

大島希巳江の英語コラム

No. 29 「ウソ」と「冗談」の境界線①:「盛り」の技術

大島希巳江
神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科、「NEW CROWN」編集委員

2025年04月23日

 浅草を巡る「嘘のツアー」というものがあり、とても人気があるそうです。「この交差点は江戸時代には八十七叉路で、帰れなくなる人が続出しました」「あのビルの上にある金色のオブジェですが、いろいろパターンがあって毎日変わります。あのオブジェが自由の女神のときやスフィンクスの場合もあり、スフィンクスの場合は555段の階段があるのでそのツアーはかなり困難を極めます」など、ウソばかりのガイドで浅草の観光を楽しむツアー。どれを聞いても、そんなわけないでしょ、と思われるような突拍子もない情報ばかりです。なぜ多くの人はウソを楽しみに行くのでしょうか? 浅草という場所が観光地としてすでに有名で、観光客といえども大抵のことはすでに知っているから本気で騙されることはない、という前提があるのではないでしょうか。ウソだとわかっているウソは想像力を広げ、「よくそんなウソ思いつくな!」といった気持ちで笑えるのでしょう。浅草を全く知らない海外からの観光客であったら、すべてのウソをウソとは捉えず、すべて信じてしまうでしょう。そして、それらのウソを面白い、とも思わないわけです。ウソとわかっているウソだから冗談の枠に収まり、だから面白い、ということです。本気で騙されたら冗談じゃないし、面白くないですね。

 ウソをウソとわかっていて楽しむという感覚は日常に溢れています。そもそも小説やドラマ、漫画などにしてもフィクションは広い意味で現実とはかけ離れたウソの話であり、私たちの多くはその創造されたものに魅力を感じ、楽しんでいます。エンターテインメントの多くは、言い換えればウソの世界でもあるのです。笑い話やジョークも、その一つだと思います。ジョークのほとんどはウソの話ですから、ジョーク=ウソ、に近いとさえ言えます。しかし、よく考えてみたら「ウソ」「冗談」「ジョーク」の境界線をどこに引くのか、これはなかなか難しいところです。

日常会話に溢れる「ウソ」と「盛り」の境界線

 「ウソ」「冗談」「盛り」の違いについて、以前大学のゼミで議論になったことがあります。失敗談や体験談のようなそもそも面白い話は事実を述べるだけでも十分面白いでしょう。しかし、事実を誇張したり情報を少し上乗せする(盛る)ことによってさらに面白さがプラスされるということもあります。この「盛り」の程度が議論になりました。やりすぎると、まったくのウソになる。ウソをついてまで目の前の人を笑わせるべきなのか、ウソをつかれても面白い方がいいのか、そのウソに悪意はないのか、話はどこまで盛っていいのか、ウソは基本的に良くないことだという価値観で生きてきた人間には、「ウソ」と「盛り」の境界線を見分けることが非常に難しく、素直に笑えないことがある、など様々な意見が出ました。その場を盛り上げるために、盛って話すのは普通、盛っていることは聞いている人たちにもわかっているから大丈夫、という意見が多かったようです。

 この、聞いている人たちもわかっているから大丈夫、という感覚は高コンテキスト特有の情報共有で、浅草ツアーのウソをウソと知っているから大丈夫、という感覚に似たものだと思われます。相手を楽しませるためのエンターテインメントを目的とした「ウソ」は「盛り」であって、本当に相手を騙したり何かを奪ったり、相手を傷つける目的で使う、悪意のある「ウソ」とは区別されるものなのでしょう。「盛る」という言い方を最近はしますが、「大袈裟に言う」とか「誇張している」という意味だと思います。面白い話をより面白く伝えるために、人は大袈裟な言い方をするのであって、ウソをついている、もしくは騙している、という意識はほとんどないと思います。

漫才の中に見る「盛り」

 漫才の「誇張」を見ていてもわかるように、やはり日本は高コンテキスト社会だからこそ、どこからどこまでが事実で、どこからが「盛り」なのか、の境目をなんとなく見分けることができます。漫才やコメディはプロのエンターテインメントですから、見る側もそのつもりで見ています。つまり、すべてがてんこ盛りのウソであってもいいわけです。誰も傷つきませんし、ウソをつかれたと怒る人もいません。このことについては、高コンテキスト社会の漫才でも、アメリカのような低コンテキスト社会のコメディでも同じです。

 

 以下、『M-1グランプリ2024』決勝戦、バッテリィズのネタより一部抜粋

 

寺家:偉人の名言なんか好きでね、結構悩んだりした時自分の支えにしたりするねんけど。お前何か好きな名言とかあるかな、と思ってね。

エース:俺悩んだことないから、ないな。悩みなんか寝たらしまいやからな。

寺家:そうか、お前みたいな名前書いたら受かるような高校受験して名前書き忘れて落ちるようなやつはな…。

エース:お前それ言うな、俺それでも毎日楽しいぞ!

 

 これは彼らの漫才の冒頭のエピソード(つかみ)ですが、盛りなしの事実であった、と後のインタビューで聞きました。盛らなくてもそのままでも面白い、というところが彼らの好感度につながっているのかもしれません。このコンビの場合はエースさんのキャラクター自体が盛っている、と思います。常識を逸したお馬鹿さん、というキャラで「悩んだことがない」「エジソンやライト兄弟を知らない、その名言も知らない」「相方の言っている言葉が理解できない」など、いくらなんでもそこまで無知ではないような気がしますが、そんな人がいたらこんなに会話が成り立たないのだな、面白いな、と思わせるのに十分です。きっとエースさんは、そもそも天然なのか学校の勉強が得意ではなかったのか、時々みんなが知っているようなことを知らない、という事実があったのでしょう。それを大袈裟に表現し、素直すぎるお馬鹿さんキャラを盛っているように見受けられます。

 やはり多くの場合は少しの事実や本当にあった出来事に「ウソ」を大盛りに乗せて、もしくは盛大に大袈裟に表現して、ネタを作っているのではないでしょうか。

 

 アメリカのコメディアン(俳優)のマーク・ノーマンドなども、コメディショーの中でアルコールと携帯電話は中毒性があるという点で全く同じであるとか、35歳になると友達はみんな離婚するとか、少しの事実を大袈裟に誇張してトークを繰り広げています。

 

<参考>

Mark Normand Stand-Up

https://www.facebook.com/FallonTonight/videos/mark-normand-stand-up/910144206021527/

ほどよく「盛る」技術

 以前このコラムのNo.21でも取り上げた、英語圏の日常会話でよく語られる「出来合いジョーク」などは、基本的に作り話であり、言い方をかえれば「ウソ話」です。日本の感覚からするとウソを極端に嫌うアメリカ社会でも、丸ごとウソ話の「出来合いジョーク」は平気で語れるのです。ジョークはウソとわかりきっているウソだから、ということだと思います。日本の「盛り」トークより、ジョークと事実の境目がわかりやすいため、低コンテキスト社会ではその形式の方が安全なのかもしれません。そのため、現実ではあり得ない話が思い切り良くジョークとして語られます。日本では体験談や失敗談の方が好まれるので、そこまで非現実的なジョークはウケが良くありません。その代わり、現実的な体験談を語る際に、話を面白くするために「ほどよく盛る」技術を身につけるようになったのではないでしょうか。

 

 昔、中学一年生の時に仲の良かったハナコという子がいます。とても面白くて芸術的なセンスの優れた子でした。夏休み明けに、美術の授業で大きな画用紙に絵を描いてくる宿題を提出するように言われました。ハナコは「あ、すみません。家に置いてきてしまいました。今から走ってとりにいってきます。」と言って、ダッシュで帰りました。足もとても速かったハナコ。とはいえ、結構家は遠かったと思います。5分くらいでハナコは丸めた画用紙を持って学校に戻ってきました。ささっと提出して席に戻り、「焦ったわー。すっかり忘れてて描いてなかった。今、ダッシュで家帰って2分で描いて持ってきた!」と呟きました。友達みんなで、よくやった、と大笑いしたのですが、その後その絵が千葉県で金賞をとり、見事にハナコが地元の新聞やテレビで表彰されていました。気まずい笑顔で写真を撮られていたハナコをよく覚えています。

 それこそ昔の話なので、細かいことは覚えていません。いつの間にか盛っているかもしれません。でも、大体このようなことがあったのは事実です。こういった昔話や誰かに聞いたような受け売りの話は、その面白さや凄さを誇張するために、さらに無責任に盛られる傾向があるかと思います。

 「ウソ」と「冗談」と「盛り」の境目は、基本的にはコンテキストの中で見分ける、ということになりそうですが、やはりその中でも悪意があるかどうか、という点は重要であるかと思います。相手を騙そうとしたり相手の不利益につながるウソは、笑えません。明らかに「冗談」や「盛り」とは境界線を引いた向こう側の話だと思います。また、相手を笑わせることだけを頑張り過ぎて、盛り過ぎてしまうと「あいつは面白いけど嘘つきだからな」という評価が下されかねません。実際、面白い人やユーモアのある人は賢い人として評価が高い一方、見境なく自分が面白いということだけに集中している人は話を盛り過ぎて信頼を得られない、ということもあります。ユーモアは思いやりですから、この辺りは気をつけたいところです。

 

やってみよう!教室で英語落語 [DVD付き]

大島希巳江 著
定価 2,200円(本体2,000円+税10%) A5判 128頁
978-4-385-36156-7
2013年6月20日発行

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プロフィール

大島希巳江    おおしま・きみえ
神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科、「NEW CROWN」編集委員

教育学(社会言語学)博士。専門分野は社会言語学、異文化コミュニケーション、ユーモア学。

1996年から英語落語のプロデュースを手がけ、自身も古典、新作落語を演じる。毎年海外公演ツアーを企画、世界20カ国近くで公演を行っている。

著書に、『やってみよう!教室で英語落語』(三省堂)、『日本の笑いと世界のユーモア』(世界思想社)、『英語落語で世界を笑わす!』(共著・立川志の輔)、『英語の笑えるジョーク百連発』(共に研究社)他多数。

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