又吉 直樹 お笑い芸人/作家
2017年09月29日
やってはいけないことをやってしまって後悔する,自分が完全ではない,だめな人間であることを自覚する,取り返しのつかないことが世の中にはあるということを突きつけられる……程度の差はあれ,誰もが経験する話ですよね。中学校に入る前に経験している生徒も少なくないはずです。それでも小説には,小説を読むことでしか得ることのできないものがあると思っています。
ものを盗んで壊した側と,盗まれて壊された側。現実の世界であれば間違いなく被害者であるはずのエーミールが,話のなかではずいぶん悪いように書かれていますね。しかし,エーミールの立場からしたら,「ぼく」の語りのように哀愁をもって語られたくはないはずです。勝手に自分の部屋に入られて,自分の大切なものをめちゃくちゃにされたわけですから。
小説では,誰によって語られたのかが問題になります。語られる視点によって世界が一変する。この,見えている世界が視点によって一変するということをわかっておくことは,ぼくたちが現実の社会を生きていくうえでも大事なことだと思うんです。小説を読むことの意味はこういうところにもあるのではないでしょうか。
しかし,そもそも,なぜこんなにエーミールが悪く語られるのか。人はみな,「自分が善なるものである」と信じたい。この作品の「ぼく」も「エーミールが悪い」と思うことで,そう信じようとしている。「もしエーミールがいい人だったら,自分は盗んだりしていなかったはずだ」と。それがこの語りに出てきている。でも,「ぼく」はそれを信じ切れない。複雑な心理が描かれていますよね。
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この小説は,少年時代の回想の語りのまま終わっています。『スタンド・バイ・ミー』※注とはつくりが違いますね。例えば,「客はそこまで話すと,そのときのことを思い浮かべている様子で窓の外の闇をずっと眺めていた」というように,最初の「私」と「客」の場面に戻してもよかったのかもしれない。でも,ヘッセはそうはしていない。「ぼく」が自分で自分の大切にしていたチョウを潰して終わる。そこに生まれる余韻こそが,この小説において最も重要な部分だと考えていたように思えます。
「ぼく」にとって,このできごとは消化されていませんよね。大人になった「ぼく」(「客」)にとっても消化されてない。消化されてない状態でいいんです。もしこれが「人間というものにはそういうところもあるからね」とか「子どもの頃のことだからいろいろあったんだよ」などと折り合いをつけて語られたらどうでしょう? いまだに直視できない,いつまでも消化できない塊みたいなものが残っている。人生の中で,ずっと気にかかっていることだからこそ,これだけ語るのでしょう。このことをより際立たせるために〝戻らない〟のかもしれません。
なぜ「私」にマイクが〝戻ってこなかった〟のか―「正しい」答えはわからないのだけれども,クラスのみんなでいろいろ考えることはいいことですよね。誰かがおもしろい読み方をして,それで作品の読みの可能性が広がっていくこともあると思います。
あるいは〝戻ってきた〟として,この後の話を書いてみるというのもいいですね。もし自分がこのような告白を受けたらどう対処するか,自分だったらこの人(「客」)にどうフォローするかを考えることもおもしろい。シーンの映像化を考えていくのもいいですよね。
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冒頭の場面では,夕方,「客」と「私」がいるところに子どもが登場して,それがきっかけになって,二人の少年時代と接続され,チョウ集めの話が導き出される。日が暮れて薄暗くなってランプをつけると,その瞬間に窓の外が闇に沈んで,二人だけの空間がつくられる……。そうやってだんだん「語り」の舞台が整えられていくんですね。よく描けていますよね。
話の展開も見事だし,描写を読むのもおもしろい。描写が急に細かくなるところがありますね。チョウについて語る部分がとても細かく詳しく書かれています。「ぼく」がどれだけチョウにのめり込んでいたか,その思いの強さがそこに表れているんですね。例えば,自分はそのものにとくに興味もなくて,したがってそれがその持ち主にとって特別な価値があることもわからずに,ティッシュ一枚取るように人のものを盗ってしまうのとはまったく違う。盗みを正当化することはできないけれども,「なんなんこいつ,人のもの盗って最低やな」で終わる話ではないんです。盗みがいけないことも,そのチョウがエーミールにとってどれだけ大事なものであるかも,「ぼく」には痛いほどわかっている。そのことを描写から読みとることができます。
このように,描写は小説にとってとても大事なものですが,それは,細かく書けばいいということではないんです。ディテールを書けば書くほど,伝えたいものから遠ざかるということがあります。俳句などはそれがよくわかりますが,小説にも当てはまります。細部の描写を「はしょるのか」「突きつめて書くのか」―このことを作家は自覚しています。
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ことばってすごいですよね。ほんとうによくできています。でも,世界のすべてをことばで表すことはできない。自分が体験したことを「そのまま」小説に書いたとしても,その小説から読者が想像する世界は,書き手から見た世界と絶対に同じにはなりえません。
「小説はウソを並べて書いている」とよく言われます。でも,それは間違っている。現実に起こったことをそのまま書いたら現実には対抗できないんです。考えたこと,感動したこと,おもしろさ,その場にあった熱量が伝わらなかったら,読んでいる人にとってはニセモノを手渡されているようなものです。それこそが「ウソ」になる。だから,作家は現実の強さに負けないように,ことばを一つ一つ慎重に選んで,ていねいに紡いでいかなくてはならない。
ヘッセが実際に類似の体験をしたのか,あるいは,見聞きしたことなのか,それはわかりません。実はそれこそ,どっちでもいいことなんです。それがどうであれ,ヘッセは小説家として,いちばん伝えたいことを小説のことばとして再構成して読み手に示している。
大事なのは,伝えるべきこと,見たことや考えたこと,その場の感動や熱量を,身振りも表情も何も使わずに,いかに活字で伝えるかということです。だからこそ,文学はおもしろくなるし,また,必要とされるのだと思います。
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「少年の日の思い出」は心理描写が複雑な作品です。こんな複雑な心理を中学一年生が読めるのかと思うかもしれませんけれど,きっと読めるんです。難しいかもしれないけれど,読んで,ぜひ,いろいろなことを考えてみてほしい。ぼくは,中学生時代,国語のテストで考えたことを細かく書き過ぎて,採点されて戻ってくるときには,「考え過ぎです」と書かれて「三角」ばかりでしたが(笑)。それでも先生は,「又吉くん,なんでそう思ったん?」と,毎回聞いてくれました。
生徒のみなさんには,ことばそのものに興味をもってほしいと思っています。それには,自分で創作してみるといいですよね。自分で実際に書いてみると,ことばをより意識することができるようになります。まずは自分で書いてみる。一度でもその経験をもつと,読むときにも,書き出しから興味をもって読むようになります。それまでは小説の真ん中くらいにきてようやくおもしろくなってきていたのが,もう,最初の一行目から気になってくる。会話一つにしても,それまでとは違った見方をするようになりますから。(談)
(『ことばの学び』No.4 2017年9月発行より転載)
*撮影:塩澤秀樹
又吉 直樹 またよし・なおき お笑い芸人/作家
お笑い芸人。作家。1980年大阪府生まれ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のコンビ「ピース」として活動中。『キングオブコント2010』準優勝。2015年に,『火花』で,第153回芥川龍之介賞を受賞。舞台の脚本も手がける。主な著書に,『劇場』(小説),『第2図書係補佐』『東京百景』(以上,エッセイ),共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(以上,自由律俳句集),『新・四字熟語』『芸人と俳人』などがある。
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