三省堂のWebコラム

大島希巳江の英語コラム

No.33 落語の世界 ―フィリピンへようこそ

大島希巳江
神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科、「NEW CROWN」編集委員

2025年09月24日

 先日、フィリピンのマニラへ行ってきました。マニラには何度も訪れたことがあります。英語落語会においては、本当によく笑う「いいお客さま」という印象が強く、また日常でも愛想が良く親切な人々が多いので、過ごしやすいところです。マニラのみなさんは陽気で楽観的で、言い方を変えると適当なので、面白い話がゴロゴロ転がっています。

リアル「いらち俥」

 街中を歩いていると、トライシクルと呼ばれるバイクや自転車で荷台を引っ張るタクシ―のような乗り物をよく見かけます。こちらから引き止めるまでもなく、ドライバーのみなさんは元気いっぱい客引きに余念がありません。私が友人2人と歩いていたら、あるドライバーさんが「おーい、乗って行きなよ〜!どこ行くの〜?」と声をかけてきました。振り向くと、大変ご年配のおじいさんで、私より華奢な体で荷台に寝そべりながら、やる気なく細い腕を振っていました。しかも彼の引く乗り物は自転車トライシクル。モーターのついたバイクとは違います。こちらは3人、しかも私以外は男性二人、183センチ80キロのアメリカ人と、175センチ70キロの体格のいい若者です。この3人を乗せて自転車をこぐつもりなのです。声をかけられた私たちも、おじいさんの細い脚を見た途端つい笑ってしまって、いやいや、無理ですって!と手を振りました。このおじいさんがこぐ自転車のトライシクルに私たち3人で乗り込むなんて、その画を想像しただけで残酷すぎます。途中でおじいさんが疲れ果ててしまって、きっと交代する羽目になるよね、何よりもそんなにスピード出せないだろうから、歩いたほうが早いのでは?などと話しながら丁重にお断りし、通り過ぎました。

 まさに落語「いらち俥」に登場する最初の人力俥の男のようです。この噺には、体の弱い人力俥の男が、あまりにも走るのが遅く、坂道も登れず、あげく客が降りて後ろから押す羽目になり、かえって遅くなる、という場面があります。いいネタ拾ったなー、なんて思いながら博物館などを巡り、帰り道におじいさんがいた同じところを通りました。さすがにもういないだろうと思ったところ、目の前をずいぶんノロノロと動いている自転車トライシクルが…。荷台にはふくよかな中年女性が3名、陽気におしゃべりしながら乗っています。そのすぐ横を数名の子どもたちが走って追い越して行きました。まさかと思い、じっと見ていると、私たちの後ろから野良犬がトットットッとやってきて、そのままトライシクルを追い抜き、その前をサクッと横切って行きました。大きなカゴを背負ったおばあさんも、トライシクルの前をのんびり歩いて横切って行きました。やがて普通のスピードで歩いていた私たちもすぐにそのトライシクルに追いついてしまい、ケラケラと笑う女性たちを横目に、追い抜きざまドライバーを確認したところ…、先ほどとは別のおじいさんでした!でも、やっぱり細くてご年配で、おしゃべりしながらものすごーくゆっくり自転車をこいでいました。しかし、誰もそれを気にすることなく、スローモーションで時間が過ぎていく感覚を覚えました。そのとき、これは移動手段ではないのだ、と気がつきました。急いでどこかへ行きたいから目の前の景色もドライバーとのおしゃべりもすっ飛ばして目的地へ着こうとする、そういうせかせかした人たちの乗り物ではないのです。街や人をゆっくり眺めながら、花や木の香りを楽しみながら、目的地へとまっすぐ行くでもなく、寄り道をしたり遠回りをしたりしながら、ノロノロと悠々と時間を過ごすための乗り物なのですね。特に観光地であれば、それでよいのだと思います。江戸時代の落語のような世界が目の前で展開されていて、本当にほのぼのとした気持ちになりました。

必要とされる仕事とは

 ほのぼのといえば、マニラの有料トイレの係員もゆったりした方でした。マニラでは観光地など、場所によっては公共のお手洗いが有料です。日本の銭湯のように、男女のお手洗いの入り口の真ん中に係員が座っています。お賽銭箱のようなものに小銭をチャリンと入れて、トイレを使います。私も小銭を手に、お手洗いへ向かいました。すると、係員の男性は少し離れたところでタバコを吸っていました。私が「小銭はこの箱に入れたらいいですか?」と聞くと、「今は休憩中だから、いらない」と笑顔で答えました。え、いらないの?目の前にいるのに?休憩中だからいらない、というのも正しいのかどうかわからない……。いや、正しくないと思うけど、多分面倒くさいのでしょう。でも何が面倒なのか?別にその男性が所定の位置まで戻ってくる必要もないわけです。私が手前にある箱に小銭を入れればいいだけです。「その箱に小銭入れといてー!」というくらいの適当さなら、よくある話ですが、「いらない」って……。もしかしたら、「いらない」のはこの男性の仕事なのでは?などいろいろ考えながら無料でお手洗いを使わせていただきました。

 落語の噺にも不要と思われる仕事や職業がいくつも出てきます。殿様のくしゃみに拍子をとる仕事、家来のあくびを止める係、たいして売るものがない口上売り、なんの資格もないヤブ医者、口は達者だが実際には一切働いていない三太夫、いずれの場合もその場が賑やかになり活気が出る、いるとなんとなく安心するという、仕事そのものとは少し違う役割を担っているような気がします。実は、有料トイレの係員も犯罪者やホームレスなどが入り込まないようにする見張のような役割があり、トイレの使用料を回収する仕事は二の次、と聞いたことがあります。

 

 必要なのかどうかわからない仕事といえば、思い出したことがあります。以前中国へ行った時に、レストランでお客さんが床にゴミをポイポイ捨てていることに驚いたことがありました。使い終わった紙ナプキンや、食べ終わったチキンの骨、エビの殻など、もうありとあらゆるものを床に捨てます。落としちゃった、とかではなくわざわざ床に捨てるのです。それを、床掃除の担当者が素早くホウキとちりとりでささーっと片付けていきます。地域性やレストランの格にもよると思いますが、大衆向けの大きなレストランではそのような慣習があるように見えました。お掃除の人に申し訳ないという気持ちもあり、なかなかお皿に残した骨を捨てられずにいると、隣に座っていた友人が「それ、床に捨てなきゃダメよ。お皿を片付ける人が困るでしょ」と言うのです。「え、そっちに気をつかうの?床掃除の人に悪いかなって思っちゃって」と言い訳すると、彼女は目を丸くして言いました。「何言っているの、床にゴミや食べ残しがなくなっちゃったら、床掃除の人が仕事を失ってしまうでしょう?彼らに仕事をあげなければ、彼らが困るのよ」

 この一言は腑に落ちました。お掃除の仕事を彼らから奪わないように、という配慮もあるのですね。元々、中国などでは、お腹いっぱい食べましたという印として、お皿に一口残すというマナーがあることもあり、ごみや食べ残しは別にする、床に捨てるという習慣があります。しかし、自文化の基準に合わせてそれをやめてしまうと、困る人も出てくるということです。

やっぱり道にも常識にも迷うことになっている

 もう1つ、マニラでのエピソードがあります。最近ではキャッシュレス化が進んでおり、多くの国で現金を使うことが少なくなっています。日本はどちらかというとそれでも現金を使うことが多い方で、先日タイやオーストラリアへ行った友人たちは、現金が使えなかったので、わざわざ両替して持っていった現金をそのまま持って帰ってきた、と話していました。私もそのような感覚でしたので、あまり現金を持たずにフィリピンへ行ったのですが…、どこへ行っても要現金でした!ホテルや大きなショッピングモールでない限り、その辺りのカフェや商店ではカードもアプリも使えず、ちょっと困りました。

 ある時、休憩しようと通りのカフェに入りました。確認しなかった私が悪いのですが、色々注文して座り込んだ後になって現金しか使えないことがわかりました。店員さんはニコニコと、「あとで払えばいいから」って、言ってくれるのですが、私は早く現金を下ろしてこなければ、と思い、近くに両替所か銀行かATMはありませんか?と聞きました。まず、店員さんが教えてくれたのは徒歩7分のところにある両替所。早速行ってみました。すると、そこは両替所ではなく外貨の相談カウンターでした。カフェに戻って、他のところを聞くと、お客さんの一人が銀行を教えてくれました。徒歩10分。銀行はありましたが、この日はまさかの土曜日。午後だったので閉まっていました。またカフェに戻ると、別の女性がコンビニの中にATMがあると教えてくれました。また徒歩10分。両替機能はなくカードも使えないATMでした。またカフェに戻ると、もはや店員さんもお客さんも興味津々で「どうだった?」と満面の笑顔。期待どおり(?)「ダメでしたー」と言うと、“Well, you tried!”の一言で大笑い。どういうことなんだ……。からかわれたのかもしれません。最初にいた店員さんはもうシフトが終わったのか、店の外で昼寝しています。引き継ぎをしていないのか、なぜ私が現金を探しているのか、店員さんたちはみんな知らないらしく、ここのカフェ代を払えなくて困っていると言うと、「まだ払っていないの?知らなかった。もう、いいわよ」というゆるさ…。え、払わなくていいの?タダ?そんなわけにいかないでしょ。結局、友人に来てもらってここは支払ってもらい、事なきを得たのですが、こういう日本人を見て「真面目か!」と思うらしいです。もう、笑うしかないですね!

やってみよう!教室で英語落語 [DVD付き]

大島希巳江 著
定価 2,200円(本体2,000円+税10%) A5判 128頁
978-4-385-36156-7
2013年6月20日発行

三省堂WebShopで購入

プロフィール

大島希巳江    おおしま・きみえ
神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科、「NEW CROWN」編集委員

教育学(社会言語学)博士。専門分野は社会言語学、異文化コミュニケーション、ユーモア学。

1996年から英語落語のプロデュースを手がけ、自身も古典、新作落語を演じる。毎年海外公演ツアーを企画、世界20カ国近くで公演を行っている。

著書に、『やってみよう!教室で英語落語』(三省堂)、『日本の笑いと世界のユーモア』(世界思想社)、『英語落語で世界を笑わす!』(共著・立川志の輔)、『英語の笑えるジョーク百連発』(共に研究社)他多数。

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No.33 落語の世界 ―フィリピンへようこそ

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