大島希巳江
神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科、「NEW CROWN」編集委員
2022年01月14日
「笑い」は世界共通のコミュニケーションであり、一緒に笑うことによってよい人間関係を築くことができる、という笑いの機能については既によく知られています。笑うという行為そのものについては、その意味も効果もかなり普遍的だと思います。ところが、もう少し掘り下げてみると、笑顔という非言語コミュニケーションが発信するメッセージや、笑うことと笑わせることの違い、何を面白いと思うのか、どういうときにどういう相手を笑わせるのか、いつ笑うのが適切なのか、など様々なテーマにおいて文化差があります。これらの文化差は、社会情勢、言語・民族構成、伝統的価値観によって笑いの需要が異なるから生じるものだと思われます。これから数回にわたって、このような観点から日本と世界の笑いの違いをお話ししていこうと思います。
日本語は「笑い」の区別にこだわりがない?
英語では、laugh、humor、comedyなど、「笑い」を表す単語がたくさんあります。一般に笑う (laugh) こと、もしくは笑い (laughter) は、「口を開けて口角を上げ、腹膜を振動させながら特有の発声を伴う行為」を指します。多くの場合は嬉しい、楽しいなどの感情表現ととらえられます。このような具体的な行動やジェスチャーが “laugh” することです。
一方、 “humor” はlaughとは別もので、「何かをおもしろおかしいと感じるセンス」のことを指します。それ以外にも、詳しくは後述しますが、近年では「ユーモアとは社会規範からの逸脱である」とする考えもあります。つまり、常識などから逸脱する(している)感覚を理解することを「ユーモア」と呼んでいるわけです。
さらに、 “comedy” はユーモアある話を発信して笑いを誘うエンターテイメントとして確立したものを指します。comedyにしてもhumorにしても、英単語として歴史が長く、昔から需要のあった言葉であったと思われます。
このlaughもhumorもcomedyも日本語ではすべて「笑い」であり、言葉の上では区別をしていません。特に区別することにこだわりをもたなかった、ということが言えます。例えば、humorにあたる言葉が作られなかったのは、高コンテキスト社会の時代が長かった日本では、同じ「笑い」という単語を使っていてもコンテキストからどういう意味で使っているのかをお互いに察することができるので、問題にならなかったからかもしれません。また、落語や狂言など歴史のある演芸がcomedyにあたる言葉にならなかったのは、それらの芸が「観客を笑わせる」ということに重きをおいたものではなかったからかもしれません。落語の祖は浄土宗の説教師である安楽庵策伝の説法であったとされており、滑稽噺だけでなく人情噺、芝居噺、怪談噺、座敷噺、など幅広いジャンルの噺が演じられました。いわゆる「落ち(オチ)」が付くから「落とし話」ゆえに「落語」と呼ばれるようになったのは明治時代以降のことなので、もともとの落語の軸は笑いではなく「噺」や「芸」にあったのだと思います。日本のコメディアンが「落語家」ではなく「お笑い芸人」と呼ばれるのも、そういったことが背景にあるのかもしれません。
なお、しゃれ、だじゃれ、滑稽さ、冗談、ひょうきんさ、面白み、ギャグなどの「笑いの内容」については、英語でも日本語でも多くの言葉で使い分けられています。どういうものを笑うのかという点については、日本人もこだわりがあると言えます。
ユーモアの不調和理論
そもそもユーモアとは何か、ということについては数多くの議論がなされてきました。近年では、「ユーモアとは期待からの逸脱であり、社会的規範や常識との不一致や矛盾である」という、Attardoが提唱したユーモアの不調和理論が主流になっています。つまり、普通ではないことや通常期待されないことがユーモアであり、必ずしも笑うこととは関係ないという考え方です。確かに、人は普通から少しずれたことが起きたときに笑うものです。誰かが何かを言い間違えた、普通ならできることができなかった、普通ならしないようなドジやばかげた勘違いが起きた、など…。ただし、ユーモアは笑いにつながることが多いとしても、必ずしも笑いが生じるわけではなく、心がくすぐられるようなこと、ほっとするようなこと、ふっとリラックスしたり、ストレスから解放されるような変わった視点を提供すること、なども全てユーモアの範疇に入ります。
日本の笑い話や英語のジョークも、このユーモアの定義に当てはまるのではないでしょうか。たとえば、日本のこんな話があります。
私のおじさんが働いている工場では会社のモットーが看板に書かれています。「キミがやらなきゃ、誰がやる!」という社長からの励ましの言葉なのですが、ある日暴風雨で看板の一部が取れてしまいました。結果、「キミがやらなきゃ、誰かやる!」という無責任で気の抜けたモットーに…。
このような話は、笑い話ではありますが、冗談とも呼べないししゃれでもないし、やはりユーモアがある、というのがぴったりではないでしょうか。
さて、ここで間違えてはいけないのは、日本では笑いに強いこだわりがなかったとしても、笑いがなかったわけではない、ということです。昔から日本には笑いに関する書物もありますし、落語のような伝統芸能もあります。人々は多くの笑いを共有してきました。こだわりがないのは、笑いが自然なことであり、外に発信したり誰かに説明したりする必要がなかった、ということなのです。また、コミュニケーションにおいて笑いが特別に必要である、という認識も非常に薄かったと思われます。日本では笑いはすでに築かれた人間関係の中で共有されるものであって、他国のように誰かとつながったりアイスブレイクするためのツールとして使われることはありませんでした。笑いに対する、需要の違いがそこにはあるのです。そのことにより、日本ではある種特有の笑いが発展しました。それが、日本人以外にはわかりにくい、いわゆる「内輪ウケ」の笑いです。これが主流になっていったために、笑わない、ジョークが言えないステレオタイプ的な日本人像ができあがっていったのです。
大島希巳江
おおしま・きみえ
神奈川大学 国際日本学部 国際文化交流学科、「NEW CROWN」編集委員
教育学(社会言語学)博士。専門分野は社会言語学、異文化コミュニケーション、ユーモア学。
1996年から英語落語のプロデュースを手がけ、自身も古典、新作落語を演じる。毎年海外公演ツアーを企画、世界20カ国近くで公演を行っている。
著書に、『やってみよう!教室で英語落語』(三省堂)、『日本の笑いと世界のユーモア』(世界思想社)、『英語落語で世界を笑わす!』(共著・立川志の輔)、『英語の笑えるジョーク百連発』(共に研究社)他多数。
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