I. はじめに
押し寄せる英語教育改革の波の中で、一人取り残された感のある高校の英語教育である。しかしその内部では、熱心な先生方により進められている新しい授業実践と、旧態依然とした訳読中心の授業が同居し、二極化が進行している。高校英語教育の世界は、まさに「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」
(*1)
という黒船の来襲にあわてふためき、改革派と守旧派がせめぎ合う幕末の様相を呈している。それにしても、高校英語教育は旗色が悪い。かたや、小学校英語教育は活気づき、中学校英語教育は着実に新しい指導法を定着させ、大学ではESP(目的別)英語科目の花盛りである。そして全体として我が国の英語教育は「技能習得」に大きく傾き、高校を除いては、どこを切っても「スキル育成」が顔を出す金太郎飴状態となっている。では、高校の英語教育はどうすればよいのか。私はこのコラムで、あえて高校英語教育にエールを送りたいと思う。高校にしかできないことがあるはずだし、バランスを欠いている現在の英語教育の流れに拮抗し、待ったをかけられるのは、高校英語しかないと思うからである。
II. 高校英語教育の二極化の現状
最近はSELHi (*2)
の影響もあってか、英語教育の学会に参加される高校の先生方が増えている。先日参加した関西のある学会では、高校の先生方が発表された研究内容に以下の用語が見うけられた:「通訳技能の利用」「フレーズリーディングによる意味理解」「シャドーイングと他の音読の比較」「訳先渡し授業の実践」「多読プログラムの導入」。今では何ら目新しくない用語ばかりだが、高校の先生方がアクションリサーチの結果を基に発表されている姿を見ると、コミュニケーション能力育成を目指した新しい授業が着実に広がりつつあると感じる。しかしその一方では、変わらない現実が存在する。今年も教育実習の打ち合わせに母校の高校に行った学生たちの多くが、「授業は本文訳とその解説を中心に進めるように」との指示を受けている。中には「余計なことはしないように」と念を押されるケースもある。また「間違えた日本人の発音ではなく、ネイティブの本物の発音をCDで聞かせリピートさせているので、勝手な音読指導はしないように」と指示を受けた者もいた(下線は筆者による)。これらを聞いて、「訳読ではなく、ペアワークなどの活動で意味理解をさせよう」、「様々な音読テクニックを試そう」と楽しみにしていた実習生たちは、途方に暮れてしまった。
地元の「悉皆研修(*3)
」(よくこんな日本語があったものだ)やSELHiの運営に参加させてもらっている体験から言うと、高校英語の改革派と守旧派の割合は、圧倒的に守旧派が多数を占めていると感じている。訳読中心主義は極めて頑固で、改革を大きく阻害している。かたや改革派にも問題がないわけではない。授業を活かすテクニックを開発され、すばらしい授業実践をしておられる先生方にありがちに思えるが、その「技」が「玄人受けのする職人芸」の域を出ていないと感じることが多い。つまり、それらの指導技術は、まだその効果を検証され、誰もができるスタンダードな手順に整理され、高校全体に伝達されるまでには至っていない。
先日、金谷憲先生(東京学芸大学)もご講演の中で、以下のように報告されていた。「うれしいことに、SELHi事業を受ける高校の英語Iの授業が大きく変わり始めており、偶然だが多くのSELHi校に共通した指導の手順ができあがりつつある。ただし、まだそれは文部科学省によって、高校全体に伝えられる標準的な指導手順には整理されていない。」今はまだ指導法研究に熱心な(好きな)先生によって担われている感がある「新しい授業実践」だが、無理のない形でその裾野を広げていくことが課題だろう。高校英語教育の二極化がこのまま続けば、小学校への英語教育導入がもたらす様々な格差(教員間の指導技術の格差や児童間の英語学力の格差)と相まって、英語教育全体を大きく阻害する可能性があると考えている。
III. 二極化を乗り越えるために、当たり前の英語の授業にしよう
高校英語教育の二極化を解消するためには、まず「技能教科」として「当たり前の活動」が、すべての教室でなされるべきだと思う。つまりそれは、「授業で英語を使う」ということである。昨年5月に文部科学省が発表した調査結果(公立高校3,800校で調査)によると、高校英語Iでは、実際に授業が英語で実施されている割合が、何と授業の1.1%にすぎなかった。当然この調査対象の分母にはSELHiも入っているだろうが、もしこの数字が本当だとすれば、どう解釈すればいいのか。やれタスクだ、インタラクションだ、英語を使った発信活動だと言いながらも、現実の授業では英語が使われていないということか。授業で英語を使わないことに疑問を持たない英語教員ばかりなのだろうか。確かに、授業のすべてを英語でする必要もないし、母語を使うほうが効率的に指導できる内容も多い。しかし1.1%とはひどい。昨年、地元の悉皆研修におじゃましたとき、教員が無理なく英語を使用する時間を測る実験をしてみた。私が先生役になり、先生方には生徒役をしてもらった。まずは英語で挨拶をし、全員立たせてウォームアップ活動に入る、簡単な語と文を使って大声で発声練習をする、様々な場面で使用するクラスルームイングリッシュを発声する、スモールトークでちょっとした話題やトリビアを語り、本日の授業メニューを説明する、そして本日教科書で扱う話をオーラルイントロダクションで聴かせる。これだけの活動で英語使用が20分を過ぎていた。クラスルームイングリッシュだけでも毎回同じ表現を用い、さらに表現を徐々に拡張していけば、無理なくインプット量は増やせるのに、なぜ英語を使わないのだろうか。また、なぜ英語の教員が英語を話すことを楽しめないのだろうか。私も長らく高校にいたし「困難校」と呼ばれる学校でも教えたので、理想と現実のギャップは理解しているつもりだ。それでも1.1%はひどすぎる。授業で英語を使ってほしい。高校にしかできない英語教育にするためにも、まずは後ろ指をさされない「当たり前の英語の授業」にだけはしてほしいものだと思う。
IV. 「技能習得」のためだけではない、高校にしかできない英語教育の構築を
わが国では長らく、英語教育の目的に関する議論があった。あった、と過去形で書いたのは、英語教育の黒船(「戦略構想・行動計画」)の襲来以来、「技能習得」以外の目的は表面上消されてしまったからだ。私も、7割方だが、英語教育の目的は「英語が使えるようにすること」だと思っている。しかし私の意識の残り3割には、別の大切な目的が絶えず居座っている。その目的とは、うまくは言えないが、人格や知性の形成に関わることであり、それは、これまで様々な名前で呼ばれてきた。曰く、「教養教育」、「世界観の育成」、「人間(人権)教育」、「グローバル・エデュケーション」、「言語相対主義」、等々。私には、技能習得だけが目的の英語教育は、極めて虚しく映る。現在の英語教育はスキル養成に偏りすぎてはいないだろうか。タスクにアクティビティ、ペアワークにグループワーク、スピーチにプレゼンテーションにディベートと、いかにも「学習者中心」の教育だと言われながら、実は技能習得と成果の測定ばかりが重要視されていると感じている。これでは、息がつまり英語嫌いになる生徒が出てこないだろうか。私は、もう少しバランス感覚が必要だと思っている。私たち教員は、生徒だった時に、そんな英語教育に魅力を感じただろうか。英語を通じて学んだ事実に驚き、喜び、心を動かされ、そして英語がよけい好きになったことはなかっただろうか。私はまだ技能習得だけでない英語教育の可能性を信じている。そして、私が末席に加えてもらっている三省堂の高校教科書EXCEEDシリーズ(英語I、英語II、Reading、Writing)の執筆チームが掲げている英語教育の目的には、すべての言語に等しく敬意が払える「健全な言語観」を育成することと、厳選した今日的な題材を通じて「クリティカルに思考する能力」を涵養することがある。
「健全な言語観」や「クリティカルに思考する能力」は、技能習得と矛盾するものではないし、基本的な言語活動の中でこそ育成されるものだと考えている。例えばそれらは、英語の発音指導、音読指導を通じても育成できる。このことを説明しよう。現在実施されている小学校英語教育を見ていると、鳥飼玖美子先生(立教大学)が指摘されているように、素直な小学生に英語を教えることにより、彼らに英語優位の考えを刷り込んでしまう危険性が大いにあると考える。それはまた、世の中に充満している、英語と言えばネイティブのもの、英語はネイティブから学ぶものという俗説をますます増幅させるだろう。いやその俗説は教員の間にも蔓延している。前述の実習生が母校で受けた指導(「日本人の間違った発音」と「正しいネイティブの発音」)を思い出してほしい。昨年、発音指導を巡って約100人のALTと約100人の日本人教員に調査をしたが、それによると、「日本の教室で最も使われている英語変種は何か」との質問に、両者ともほぼ全員が「アメリカ英語」と回答している。しかし、「教室ではどの変種を使用すべきか」という質問には、ALTたちのほぼ全員が「どの英語であるかは問題ではない。通じる英語(intelligible)であればいい」と回答した。またALTたちの多くは、アメリカ人も含め、日本の教育現場でアメリカ英語が過度に使用されていることに疑問を呈していた。これに対し、日本人教員は何の疑問もなく、「使用すべき変種として」6割が「アメリカ英語」、2割が「イギリス英語」、そして1.5割は「どの英語などと考えたことがなかった」と答えている。つまりこのことは、EIL
(English as an International Language) やWorld
Englishesと言った概念が、ネイティブのほうにこそ意識され、日本人教員はいまだネイティブ英語信仰に縛られているか、もしくは意識すらしていないということの表れであると考えられる。もちろん、EILはまだ理念上の産物であり実体はないし、World
Englishesとは言うが、音素の面でもプロソディーの面でも「通じない(unintelligible)」我が日本語英語(カタカナ発音)はまだその中に入っていない。そのため発音指導にはまず何らかのモデルに準拠する必要はあるのだが、それでも理念の問題として、生徒に一つのモデルを無批判に押しつけないこと、様々な変種に言及しながら発音を教え、発音と国家や民族のアイデンティティとの関係を批判的に考えさせることが必要だと考える。小中の英語教育で刷り込まれかねない、英語に関する誤った意識を修正できるのは、高校の英語教育であると確信している。
批判的に思考することこそが、小中の生徒よりも、より高校生に適した活動だと考えている。ゆえに、思考する姿勢を育成するためには、教科書で扱う題材が極めて重要である。そのため、例えば高校英語EXCEEDシリーズでは、「言語と民族の関係」、「消滅しつつある言語の保護の問題」など、言語観の育成を目指した教材選択がなされている。言語の問題を離れても、教科書で扱う題材は重要である。生徒たちが「考える」ためのfood
for
thoughtとなり得る、上質で今日的な課題を提供する必要がある。問題は、それらの題材を通じて、生徒たちに、知る喜びと客観的・批判的に思考する機会を、授業の中で、どのように、どのくらい提供するかである。ただし、これは決して教科書を訳しながらうんちくを垂れるという古い授業への回帰を意味していない。考える姿勢の育成は、たとえ技能習得の活動を通じても可能だと思うし、具体的な方法についてはこれからの課題だと考えている。
技能習得だけでない英語教育の可能性については、スキル習得を旨として授業改革を進められている熱心な先生方にこそ、その意義を再確認して欲しいと思っている。熱心であるがゆえに、怒涛の英語教育の流れの中で、全体的にはバランス感覚をなくされている気がするからである。英語教育にバランスを取り戻す点において、先生方の熱意と能力に期待したい。
V. むすびにかえて
いただいたこの機会を使って、旗色の悪い高校の英語教育にエールを送りたいと思った。高校英語よ、そんなに卑下することはないと。研究熱心な先生方へ、どうか先生方の取り組みを整理し、かみ砕き、誰もがどこででもできる手順にして全体に広めてください。次に、多忙ゆえに十分な研究時間がとれない多くの先生方へ、ほんのちょっと英語を使って「当たり前の授業」にする第一歩を踏み出してください。最後に全員の先生方へ、どうか高校にしかできない英語教育の意義とあり方を模索してください。小中の英語教育で子ども達についた「技能偏重主義」や「ネイティブ信仰」のサビを落とし、彼ら彼女らが、技能習得に特化した容赦のない大学のESP授業を受ける前に、確かな言語観や世界観をしっかりと身に付けさせてあげてください。がんばれ、高校の英語教育。
*1
文部科学省は平成14年7月に「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を、さらに平成15年3月に「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」を策定した。この「戦略構想・行動計画」により、先進的な英語教育の推進が一層図られることとなった。
*2
文部科学省は平成14年度から「スーパーハイスクール」事業を進めている。その一環であるSELHi(スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール)とは、「英語教育に重点を置いたカリキュラムの開発、一部の教科を英語によって行う教育、大学や海外姉妹校との効果的な連携方策など、英語教育に関する研究開発を行う学校」のこと。
*3
ここでの悉皆研修とは、上記「戦略構想・行動計画」の一環として行われている、公立中学校・高等学校の英語科全教員(約6万人)を対象とした5ヵ年研修のことを指す。
中井 英民 (なかい ひでたみ)
天理大学教授。奈良県立高校を23年間歴任した経験を持つ。現在、文部科学省・奈良県教育委員会主催の英語教員集中研修(悉皆研修)、奈良県国際課主催の新任ALT向けの講座等、数多くの研修や講座で講師を務めている。『音読したい、映画の英語』(スクリーンプレイ社)等、著書・論文多数。
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