はじめに
ここ何年か,米国や環太平洋諸国の教育関係者と話す機会が何度かあり,「日本の英語教育で最も改善が必要なことは何か」という質問をしばしば受けた。日本の社会システム全体の構造的問題であることは理解しながらも,「高等学校の英語授業である」と答えてしまったことが一度ならずある。それがすべてではないにせよ,一片の真実は含まれているのではないだろうか。
中・高・大の温度差
中学校の英語教育は,近年かなり様変わりした。学力低下などの批判はあるものの,全体として「新しい教育方法を学び,取り入れよう」「生徒にとって本当に意味のある教育とは何かを考えよう」とする姿勢は顕著である。大学での英語教育も,少子化による生徒数の減少を背景に,その内容は大きく変化した。以前あったような,文学作品をただ訳していくというスタイルの授業は,今や少数派になっている(これは文学作品を扱うこと自体を否定するものではない)。こうした変化に関連して,私の尊敬するある中学校英語教師は,教え子の次のような感想を紹介している―「中学校で受けた英語の授業と今やっている大学の授業は,英語を使っていろいろ活動するという点でけっこう似ている。高校は別世界だった」。
(小)中高大の連携を考えたとき,高等学校の英語教育は現在のままでよいのだろうか。もちろん,以前から素晴らしい教育を行っている教師や学校も少なくない。しかし,授業が受験指導化している,話す・聞く力の養成がなされていない,多くの英語嫌いを生み出しているなど,さまざまな問題点も指摘されている。このコラムでは,主に進学校を対象に,少し別の観点から提言してみたい。
「生徒による作業」が中心の授業を
授業中に,生徒はどれだけ「動いている」(=活動を行っている)だろうか。高校の授業は,極端な「座学」になっていないだろうか。現在でも支配的であると考えられる文法訳読式の授業を受ける生徒の多くは,次のような感想を持つのかも知れない。
先生の説明はとても丁寧だけど長かった。(中略)特に,ひたすら長文の訳読をする授業が続いたとき,意欲が低下した。当てられた人以外の40人は無駄な時間を過ごしているようだった。(ある受講生の感想より)
文法の授業であれ,リーディングや会話の授業であれ,多くの生徒は「自分が参加している」「自分の存在が何らかの意味を持っている」と感じられるような授業を望んでいるはずである。そのような授業を,教師の説明中心の授業で達成することは,困難なのではないだろうか。
必要とされるのは,教師による説明を減らし,生徒が主体的に取り組む作業の比重を増やすことである。具体的には,必要以上に詳細な文法説明や全訳などをなくし(必要に応じて部分訳などを行う),基礎力を養うトレーニングとしての音読活動,自己表現活動,ペアやグループによる教え合い活動などの時間を増やすことである。関西大学の静哲人教授の言葉を借りれば,「なるべく『授』業をしない」(『現代英語教育』1993年4月号,研究社)ということになるだろうか。
技能教科としての英語
英語という教科は,人格陶冶・人間教育と統合する形で英語コミュニケーション能力の向上を目指す「技能教科」である。頭で「分かる」レベルで留まってはならず,「できる・使える」ようにする,「知識理解」だけではなく「技能養成」を行うことが必要な科目である。多くの識者が指摘するように,現在の高校英語教育は「分かる」ほうに比重が置かれ過ぎているように思われる。
技能養成の身近な例として,運動部の指導を考えてみよう。例えばテニス部の顧問は,生徒にどのような指導を行うだろうか。戦術の講義もあるだろうが,時間の大半は生徒に実際にプレーさせたり,あるいは基礎練習としての素振り等を行わせるのではないだろうか。純粋な比較はできないとしても,英語の授業でも,インストラクター(教師)の説明を聞くことよりも,生徒がさまざまな活動に取り組む時間がもっと必要なはずである。
参考になる一例が 『和訳先渡し授業の試み』
(金谷憲/高知県高校授業研究プロジェクト・チーム,三省堂 2004年)
に見られる。このスタイルの授業では,「ワードハント」(語彙のスキャニング活動),パラグラフ整序,タイトル・要約と段落(あるいはより大きなまとまり)のマッチング,文章中で比較されている内容を2色のペンで塗りわける活動,読み取った内容の図表等への情報転移,story
retellingなど,教科書本文を材料にした多彩な活動を準備し,生徒に取り組ませている(私は「和訳先渡し授業」の本質は,ラウンド制タスク・リーディング(注)
であると理解している)。このスタイルの授業を経験したある教師が,「ストップウォッチで時間を計ったりしていると,自分が英語のトレーナーになったような気がする」と述べていることは興味深い。作業中心の授業への変化がもたらす教師の意識変化を反映する感想である。
(注)ラウンド制タスク・リーディング:同じ文章を,異なる活動を行いながら,重層的に何度も読む方式。
このように,生徒が取り組む多彩な活動を準備し,教師が果たすべき役割を,現在支配的な「英語(言語)について解説する人
(provider of linguistic analysis)」から「言語活動のコーディネーター (coordinator of language
learning tasks)」へと転換すること(より正確に言うと,2つの役割の比重を調整し直すこと)が必要なのではないか。
もっと自己表現活動を
高等学校では,自分の考えや想いを英語で伝え合うという活動が少ない。勤務校で大学生を対象に調査してみると,与えられたメッセージを英語に変換(要するに和文英訳)したことはあっても,英語で考えを述べたり書いたりした経験は,高校では極めて少ない事がわかる。
自己表現活動には,単文レベルで自分の考えを書く・言う活動から,スピーチ,テーマ英作文,ディスカッションといった本格的なものまで,さまざまな活動が含まれる。私の知る限りでは,単語・文法の知識が限られた中学校において,むしろ高校以上に多様な自己表現活動が行われているようだ。中学校英語教科書
NEW CROWN (三省堂)に含まれる初歩的な自己表現活動の一例を見てみよう。"At the Zoo" (2年生LESSON
3)は,「世界で絶滅に瀕している種」をテーマとしたレッスンであるが,この課末には,本文を参考にして自分が動物たちを救うために「できること」や「しなければならないこと」をWe
can...,We
must...という助動詞を用いて述べる活動が準備されている。canやmustという助動詞を,単なる習得すべき文法項目としてではなく,自分が考えたメッセージを表現する媒体として生かそうとする活動である。高等学校においても,新しく習った文法を用いて自分の考えを表現する活動,題材について英語で感想を書く活動,スキットを創作する活動などは,もっと広範に実施されてよいのではないか。
高等学校だからこそできること
高等学校になれば,考えや想いをお互いに英語で伝え合うことで,自己理解・他者理解が深まるような本格的な自己表現活動が増えていくのが望ましい(中学校でも一部だが実施されている)。英語でスピーチを行ったり,書いた作品をお互いに鑑賞し合ったり,価値偏差を生み出すトピックについて簡単な英語ディスカッションを行ったりして,「ああこの人はこんなこと考えているのか」とか「この人にはこんな側面があったのか」など,お互いについての気づきのある機会が多いと,クラスという学習集団の成長にもつながるはずである。「他者と関わる手段としての英語」「お互いをより良く理解する手段としての英語」という視点を見失わないようにしたい。
受験のプレッシャーでそんなことはできないという反論は当然予想される。大変よく理解できるのであるが,英語を通して人と関わることの魅力を教師自身が実感していれば,時間をやりくりして自己表現活動を行うのではないか。これは逆に,ある人の授業を見れば,「その人にとって英語とは何なのか」という教師の言語観・コミュニケーション観が見えてしまうという意味でもある。
まとめにかえて
教科書に含まれる優れた題材,あるいは自分で準備したオリジナル素材をうまく利用して,生徒に「伝えたい・書きたい」という気持ちを引き起こし,自己表現活動に発展させたい。教科書題材を単なる「文法解説と訳出の対象」として扱わないようにしたい。英語の「習得(定着)」だけではなく,英語を用いた「表現」や「他者との関わり合い」にも目を向けるようにしたい。そうすれば,高校の英語教育(授業)は,単なる進学や就職のための手段ではなく,それ自体が生徒にとって意味のある文化的実践になるであろう。
池野 修 (いけの
おさむ)
愛媛大学助教授。専門分野は英語教育学,第2言語研究。第2言語(英語)リーディングを主テーマとして研究を行っており,最近では,学習意欲,theme-based
language instructionなどの課題にも取り組んでいる。1997年度大学英語教育学会 (JACET) 新人賞。主な著書―『英語リーディング事典』(研究社,共著,2000),"The
Japanese mind: Understanding contemporary Japanese culture"(Tuttle
Publishing Company,共著,2002)他。
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