1.なぜ、辞書を引くのか
「なぜ、辞書を引くのか」と言うことを考えてみたい。それには、書かれていることばや話されたことを正確に自分のことばに置き換えて理解しようとすることが大前提としてあるからだ。例えば、「下水が谷川のように潺潺と音に流れたりしている処あり(後略)」(永井荷風『日和下駄』より)を読むと、まず「潺潺」ということばに疑問がわく。この「潺潺」の読みである。
漢和辞典に登場してもらわなければならなくなる。部首の「」からこの漢字が「センセン」と読み、かつその意味も「水がさらさらと流れるさま」と分かり、先の文が自分のことばになってくる。このようにして辞書の恩恵にあずかれるわけだ。
よく日本人は辞書を引かない民族だといわれる。しかし、それも最近の日本語ブームで少しは様変わりしてきているかもしれない。では、本題に入って最近の高校生はどうであろうか。
予習を課題に出すと、たいていの生徒は誇らしげな顔を(やってきたぞという顔を)している。ところが授業に入るとその8〜9割の顔が変わってくる。つまり、彼らは教科書の新出語の欄にある単語を引いてきているだけなのである。その引きかたも本文の内容には到底及びもつかない語義で、ひどい場合、受験用の単語帳や俗に言う「豆単語帳」などで手っ取り早くやっつけてきている。それもノートに書いているのでなく教科書の中に直接書き込んできていたりする。こちらが「マア、やってきたからいいかな」などと甘い顔をすれば、その後はもう
“That's all.” である。
高校生にはまず、しっかりとした中型以上の統一した辞書は持たせるべきである。よく数種類の辞書を持たせたほうがいろいろな定義が調べられていいといった意見を耳にするが、それはどうであろうか。また、今流行の電子辞書もあるがこれには例文も少なく、今ひとつではなかろうか。
では、その辞書をどのように使わせるか。
ノートのありかたから考えてみたい。ルーズリーフ型のノートが生徒に重宝がられているようだが、欠点はよくページが紛失してしまうということだ。それよりも、ごくふつうの見開きのノートがよい。どの学校でも1時間の授業で一課の1パート(またはセクション)の学習がひとつの目安になるかと思う。だから最初の1ヶ月ほどは一課分の全文を一気に仕上げるのではなく、1パート(セクション)ごとに、ノートの左側に本文を書き写し、右側には辞書を引いて、ただ訳を書くのではなく生徒にとっての新出語の定義を書き記させる。仮にその定義が誤っていたとしても消しゴム等で訂正するのではなく、朱か何かで色を変えて訂正させる。また小型のノートを常備させて、必要な注意事項はメモさせておくのもよい。
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