編者・執筆者紹介
バトラー後藤裕子 (ばとらー・ごとう・ゆうこ)
Yuko Goto Butler
東京都出身。東京大学文学部東洋史学科よりB.A.,カリフォルニア大学ロスアンジェルス校(UCLA)でM.A.(比較教育学),スタンフォード大学でM.A.(言語学),Ph.D.(教育心理学)を取得。スタンフォード大学教育研究センターのリサーチ・フェローを経て,現在ペンシルバニア大学教育学大学院言語教育学科アシスタント・プロフェッサー。
著書に『多言語社会の言語文化教育』(くろしお出版)がある。
目次
はじめに
第1章 動き出した日本の小学校英語教育
1.国際理解教育の枠組みの中での英語活動
(1)小学校での外国語活動の開始
(2)さまざまな英語活動
2.英語活動導入の動機
(1)小学校で外国語活動が導入されることになった背景
(2)日本人は本当に英語運用能力が低いのか
3 日本の英語教育の流れ
(1)文明開化と実学英語の時代(明治中期まで)
(2)「受験英語」と英語排斥の時代(明治末期から第2次世界大戦まで)
(3)英語教育大衆化の時代(第2次世界大戦後)
(4)昭和後期から平成の実用的な「コミュニケーション英語」
(5)小学校での外国語活動の導入
4.さまざまな課題
第2章 韓国・台湾の小学校英語教育
1.韓国,台湾,日本の小学校英語教育政策の概要
2.韓国の状況
(1)加熱する英語教育への保護者の関心
(2)公教育の中での英語教育
(3)小学校での英語教育の導入
3.台湾の状況
(1)多言語社会の中での英語教育
(2)国民小学での英語教育の導入
4.日本,韓国,台湾の状況を概観して
第3章 小学校英語教育にまつわる通念の検討
1.できるだけ早く始めるべきなのか (導入の時期の問題)
(1)臨界期とは何か
(2)臨界期の問題でわかっていること
(3)臨界期の問題でわかっていないこと
(4)外国語としての英語教育環境の中で考えるべきこと
2.聞く・話す能力の養成が最重要なのか? (指導内容と教授法の問題)
(1)目的別小学校外国語教育導入方法
(2)手探りのコミュニケーション活動
(3)コミュニカティブ・ランゲージ・ティーチング(CLT)とは何か
(4)子どもでも外国語は母語のようには学べない
(5)コンテント・ベースの指導(CBI)には注意が必要
3.ネイティブ・スピーカーから学ぶべきなのか (指導者の問題)
(1)ノン・ネイティブ・スピーカー教師の英語力、英語指導力
(2)ネイティブ・スピーカーの強みと弱み
4.評価は必要ないのか(評価の問題)
(1)評価の役割
(2)目的に見合った組織的な評価(アセスメント)の必要性
(3)効果の度合い(エバリュエーション)の実例と検証
(4)評価のない指導はありえない
第4章 これからの日本の小学校英語教育
1.長期的視点に立った目標設定
2.ニーズに合ったカリキュラム・教材開発
3.ポスト・ネイティブ・モデルの構築
4.教員養成の充実
5.系統的(systematic)な評価の重要性
6.今後に向けて
参考資料 『バトラー・アンケート』の参加者のプロフィール
あとがき
引用文献
はじめに
ある都内の公立小学校の英語活動での出来事である。5年生の5時間目の授業。25名ほどの子どもは英語教室と名づけられた特別教室に集まってきた。通常の教室と違い,机はなく,折りたたみ式の椅子が雑然と並んでいる。机がないせいか,開放感がある。壁には世界地図や,世界遺産の写真の切り抜き,カラフルなイラストが張りめぐらされている。“School”
や“park”といった英語単語もいくつか張られている。若い担任の男性教師はニコニコしながら,教室に入ってくると,まず英語の歌をテープで流した。給食の後のせいか,はじめは少しざわざわしていた教室も,英語の歌が始まると私語が減る。おおかたの子どもはそれぞれの椅子につき,テープにあわせて歌を口ずさみ出した。子どもたちはリラックスしているようだ。
歌が終わると,担任の教師は「じゃあ,ゲームを始めよう」と子どもたちに話しかけ,クラスを5つのグループに分けた。椅子は教室の外に出し,子どもたちは床にそのまま座り込む。それぞれのグループには,野菜や果物の絵が描かれたカードが配られた。子どもが1枚ずつカードを引き,それについて英語で話してみようというものだ。教室はにわかに活気づく。子どもたちの笑い声があちこちのグループから聞こえる。教師にもっとも近い位置に陣取っていたグループに,教師が話しかける。「さあ,みんなの前で言ってみようよ。」りんごの絵カードを引いた男の子がさっと立ち上がって言う。
I am apple!
教師もニコニコしながらそのフレーズを繰り返す。“I am apple!” その後に続く児童も皆このフレーズを使っていく。“I
am peach!” “I am banana!” “I am grape!” …
この授業風景をビデオテープに撮っていた筆者は,自らが教鞭をとっているアメリカの大学院の授業で,このテープをアメリカ人英語教師たちに見せた。彼らの多くは英語を母語としない移民の子どもたちに英語を教えており,自分たちの生徒がアメリカに移民してくる以前にどのような形で英語を学んできたかにとても興味を持っている。そんな彼らはこのビデオを見て,目を白黒させる。なぜなら,彼らにとって“I
am apple”は英語ではないからだ。
文法が気になる読者は,appleの部分を聞いて,英語の名詞句には必ず数の概念が伴っていることを思い出したかもしれない。英語では,数えられる概念には,複数の場合は数を表す形態素-s
を名詞の後につけて,applesのように表し,単数ならば冠詞の助けが必要になる。「そんな細かい文法事項を小学校英語に持ち出すな」という意見もあるだろうが,数や冠詞の使い方は日本人がもっとも苦手とする項目であり,決してあなどれない
(Butler, 2002; ピーターセン, 1988) 。数や冠詞は単なる文法の1項目というよりは,英語での認知表現の根源にかかわる一問題であるといってもよい。
英語を母語とする子どもたちは,ほぼ4歳ごろまでに冠詞の基本的な使い方を習得すると言われている
(Maratsos, 1976)。つまり,英語を母語とする者(ネイティブ・スピーカー,NS)にとっては,言語表現に数の概念をくっつけることが必須であり,これが欠けていると非常に不自然に聞こえる。時には大きな誤解のもとにさえなりうる。「ノン・ネイティブ・スピーカー
(NNS)の子どもの英語を初めて見ることになった時,冠詞や複数の“-s”の落ちた生徒の作文を読んで,何かこの子には知的な障害があるのかと思ってしまったことがある」と言っていたアメリカ人教師もいた。これでは,「たかが冠詞,通じればよい」などとは言っていられない。
筆者は何も子どもたちに「文法説明」をすべきであるといっているのではない。しかし,このような中途半端なインプットが英語導入期に行われると,数や冠詞の習得が非常に困難になってしまう可能性がある。そのままいつまでたっても直せなくなってしまうこともありえる。こうした現象を言語習得理論では,「化石化」などと呼んでいる
(Selinker, 1972)。
しかし,“I am apple”が何より問題なのは,この構文自体が英語では大変不自然だからである。日本語では「うなぎ文」といって,この種の構文は立派に存在する。日本のすし屋で「おれはえびだ」と言ったところで,それを聞いて仰天する者はいまい。この客は単にえびの握りを注文しているにすぎないからだ。しかし「おれはえびだ」を英語に直訳しても「おれはえびが欲しい」という意にはならない。ハロウィーン・パーティーでりんごに仮装したつもりの者が,“What
are you?”(「お前は何だ?」)と聞かれ, “I am an apple”(「おれはりんごだ」)と答えるなど,非常に特殊な状況を除き,日本の子どもが“I
am an apple”を実際に英語で使う場面は,きちんと冠詞がついていてもまずないだろう。
2002年から日本の公立小学校では,総合的な学習の時間の枠内で,外国語活動(現実には英語活動とほぼ同義)を行うことが許されることになった。この外国語活動の目的は,英語教育ではなく,国際理解の一環として,外国語会話等を通じ,異文化理解への興味・関心を深め,コミュニケーション能力の育成を図ることにあるとされている。そのため,音声中心に子どもの身近な題材を扱った体験活動を行うように定められている。後で詳しく述べるが,この文部科学省の指針は,教室現場では多様に解釈されている。英語会話と英語学習とはどう違うのか。英語を「教えない」体験学習とは何か。英語活動の内容をめぐり,同じ学校内で教師の足並みがそろわないことも多い。
外国語でのコミュニケーションを楽しみ,日本を含めたさまざまな言語や文化への興味・関心を高めるための英語活動なのだから,“I
am apple”でもいいではないか,という考えもあろう。しかし,インプットの量がどうしても限られてしまう外国語学習環境の中で,どのような形で,どのような質の英語を子どもたちに与えていくかは,その後の英語習得に大きな影響を与えかねない重要な問題であると筆者は考える。
東アジア諸国でも,近年,小学校で英語が教科として次々に導入されている。上海市は,一部公立小学校でのバイリンガル教育を開始した。新しく設立が進んでいる半官半民の学校では,一般科目を英語で教える試み(コンテント・ベースの教授法)も始まっている。台湾では2001年からすべての公立小学校で,5-6年生に教科としての英語教育が義務づけられたが,台北市では2003年から1年生から英語が必修となり,英語を英語のみで教えることにほとんど抵抗感のない,優秀な台湾人英語教師が各校に配置されている。日本と違い,NSの教師が教壇に立つことのあまりない台湾の公立小学校では,保護者が自主的に資金を募り,NSの教師を雇い入れるケースも出てきている。韓国では1997年から小学校で英語が教科として導入されているが,教育人的資源部(日本の文部省に相当)主導のもと,担任教師へのかなり徹底的な教師研修が行われている。韓国教育人的資源部は,2002年度より英語の授業は英語のみで行うよう指導している。
公立学校以外でも,子どもたちをとりまく英語教育環境は,特に大都市では,加熱状態になっている。アジア各国で,書店には児童・幼児を対象にした英語本やCD,DVDがあふれているし,児童英語教室も花盛りである。公の統計は明らかではないが,ソウル市では7-8割の小学生が英語塾に通っているとも言われる。一部では,英語の発音をよくするための口蓋整形手術も大真面目に行われている。
バイリンガル教育をうたい文句にした私立学校も,アジア諸国で次々に設立されている。母語以外はすべての教科をネイティブの教師によって英語で教えるというカリキュラムは,アジア各国で,保護者の熱い視線の的になっている。日本では,インターナショナル・スクールは各種学校という格付けにもかかわらず,日本人の両親をもち,日本国籍を有する子どもたちの間でも,入学希望者が急増している
(増田, 2003)。
こうした中で日本では,2004年1月,河村文部科学大臣(当時)は近い将来,全国レベルでの小学校での英語導入を検討している旨を明らかにした。英語を教科として全国の公立小学校で導入するとなれば,どのような形で,どの程度導入していくのか,十分な検討と,周到な計画,準備が必要なことは言うまでもない。
筆者は近年,アメリカおよび東アジアで,小学生への英語教育について調査・研究をしているが,東アジアの英語教育熱には,目を見張るばかりである。しかし,そもそもなぜ我々は英語を学ぶのであろう。
英語は,やはり子どものうちから始めないといけないのか。早く始めれば,アジアの子どもも英語のNSの子どものように,自然に英語が身につくのだろうか。英語の教師はネイティブの教師でないといけないのか。小学校では,会話を中心とした授業内容に的を絞っていくべきなのか。読み書きの指導や評価は,英語嫌いをつくるから控えるべきなのか。英語は英語で授業をするのが,最適なアプローチなのか。他の教科もできるだけ英語で行うようにしたほうがよいのか。
「英語活動」などが行われていたり,国を越えて,現場を預かる教師が共通の課題を抱えていることに気づかされる。そこで本書では,日本に先駆けて,英語を小学校で取り入れている東アジア(特に韓国と台湾)での,筆者自身による研究やその他の実証研究の結果なども紹介しながら,英語導入に当たって,現場の教師や保護者,行政が抱えているさまざまな疑問・問題点を考えていきたい。今のところ早期英語教育の実践に関し,何がわかっていて,何がわかっていないのか,つまり何が我々の誤解で,何が憶測なのか,何が非現実的な期待なのかを整理し,英語を習得することの意味をもう一度問いかけることで,どのようにしたらできるだけ我々の目的にあった「有意義な」小学校英語教育が可能なのかを建設的に考えていきたい。
本書では,言語教育政策的な視点を念頭にまとめてみた。したがって本書は,小学校でどのように英語を教えるべきかの実践ノウハウを紹介するものではない。本書の目的は,今後の小学校英語のあり方を考えていく上で参考になるであろう今までの知見を,主に東アジア諸国の例を中心に分析,紹介する点にある。しかし,小学校英語教育をめぐる議論は,一部の教育行政に携わる担当官だけでなく,教育関係者,教師,学生,保護者,そして小学校英語教育に関心を持つ多くの人々の間で,幅広く行われるべきであると筆者は考えている。この本によって,多くの方が小学校英語教育への理解・関心を少しでも深めることにつながれば,幸いである。なお,興味のある読者が文献に直接あたることができるよう,引用文献は外国語文献も含め,巻末にできるだけ明記した。日本語文献と外国語文献を区別するために,日本語のものは日本語で表記し,その他の外国語文献(韓国語,中国語,英語)の引用はすべて英語で表記してある。参考にしていただきたい。
本題に入る前に,いくつかの用語の確認をしておきたい。まず「母語」「第一言語」に関してだが,本書では,子どもが生まれて,母親または他の養育者を通じて初めて接し,子どもの認知的発達上(少なくとも就学前ごろまで),中心的な役割を果たす言語のことを「母語」ないしは「第一言語」と呼ぶ。ただし本来,言語・心理学上のこれらの言葉の概念の定義は実は複雑であることをお断りしておく。
また,英語教育の場では,「第二言語としての英語 (English as a Second Language,
ESL) 」および「外国語としての英語 (English as a Foreign Language, EFL)」という用語がよく使われる。ESLは,ターゲットになる言語が,コミュニケーションの主なる手段として話されている環境の中でその言語を習得する場合(例えば日本語を母語とする子どもが,英語圏で英語を習得する場合)をさし,EFLとはターゲットになる言語が主には話されていない環境でその言語を習得する場合(例えば日本語を母語とする子どもが,日本で英語を習得する場合)を指す。本書の内容の中心である韓国,台湾,日本の場合は,基本的に
EFL 環境であるといえる。英語使用が広まるにつれ,ヨーロッパの一部など,両者の区別がつきにくくなってきている地域が増えてきており,ESL,EFLの区別は意味がなくなってきているという指摘もあるが,東アジアにおける英語教育では,少なくとも現時点では,ESLと
EFLの違いは無視することのできない重要な問題を抱えていると筆者は考えている。
では,本題に入ることにしよう。 |