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英語教育リレーコラム

私が影響を受けた本『The Sense of Wonder』 (Rachel Carson, Harper Collins, 1998)

岩政 伸治(白百合女子大学)

 私たちは英語を教えるときに、英語を「読み、聞き、書き、話す」ための、いわゆる “how to” を教えることに腐心するあまり、何を読み、何について語るか、つまり “what” の部分については後回しにしていないだろうか。確かに教師が教えることの大部分は、英語を「いかに = how」扱うかであるが、これが必ずしも生徒の英語学習意欲をかき立てる訳ではないだろう。素振りとランニングだけでは決して野球の楽しさは分からない。英語も然り。英語学習には、生徒の好奇心をくすぐり、想像力をかき立てる「コンテンツ = what」が必要である。

 先日、ある学生がカフェテリアで授業の予習をしていた。詳しく見たわけではないが、彼女が使っていたテキストは、TOEICや資格試験などを想定して作られているようであった。どれどれとおせっかいで問題を覗いてみると、「弊社の商品をご注文いただき有り難うございます。あいにくお求めになられた商品は現在品薄のため…」といった内容の英文が書かれている。ページをめくると、今度は多少内容のある、エッセイからの抜粋らしき文章が目に入ったが、エッセイの著者が伝えたいメッセージとは何の関連もないエクササイズが続けて機械的に用意されている。その問題を見て少し不安になった。試験対策とはいえ、本当にこの文章が頭に入っているのだろうか。意識が飛んで、同じ行を繰り返し読んではいないだろうか、ましてやこれが収録されたCDを何度も聴くのは苦行ではないか、そんなことを繰り返し聴いていたら英語学習は青春時代のトラウマとして心に刻まれてしまうのではと芋づる式に余計な心配が脳裏をかすめた。

 トラウマは大げさだとしても、おそらくこの学生は今読んでいる内容を明日には忘れてしまうだろう。学生のもとを離れて歩きながらあれこれと考えをめぐらせた。…でもその学生がお昼を食べた学食で、偶然耳にした歌の一節はいつまでも頭から離れないかもしれない。何を隠そうその日の私がそうだったのである。ゆですぎで麺がのびたスパゲティを学食で食べながら、何気なく耳にした“but I still haven’t found what I’m looking for”という歌の一節が授業中、学生を前に話をしている自分の頭の中で響いている。教壇に隠れた足下で思わずリズムを取りそうな自分に苦笑いしてしまった。こういった経験は今に始まったわけではない。高校の時、英単語はなかなか覚えられないのに、国語の授業で出会った平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は読んだだけでいつの間にか憶えていた。英語の先生が授業中に語った「私は誰か」という問いと、その説明に用いた「リアはリアの影法師だ」というシェイクスピアの謎めいた一節は多感な一高校生の心に響いた。いや待てよ、そういえばその昔、好きになった女の子の音楽の趣味から住所や電話番号、持っていた筆箱の色に至るまですぐに憶えてしまったではないか!

 勉強が好きになるには、「何か = what」が必要だという漠然とした思いに、「好奇心をくすぐり、想像力をかき立てるもの」という具体的な言葉を与えてくれたのが、アメリカの海洋生物学者にして作家のレイチェル・カーソンが書いた未完のエッセイ、The Sense of Wonderとの出会いである。カーソンは、化学薬品が生態系に与える深刻な影響を告発した『沈黙の春』(Silent Spring, 1962) の著者として有名であるが、このエッセイにはカーソンが家族として引き取った姪の息子、ロジャーとの自然体験が美しく綴られている。自然の中に身を置き、自然を体験することで、子供の心に備わっているsense of wonder――驚き、感動し、想像を巡らせ、未知なるものに畏敬の念を払う感性――が培われ、それは大人になって訪れる幻滅や無関心への解毒剤となる、と語るカーソンのエッセイに、生きる上での好奇心と想像力の大切さを学んだのである。

 美しいと感じたり、新しい未知の世界に夢中になったり、同情したり、哀れみを感じたり、感心したり、愛情を抱いたりするようになると、その感情を抱いた対象について知りたいと思うようになる、と語るカーソンのメッセージはまた、なぜ学習に好奇心と想像力が大切なのかを教えてくれる。カーソンがこの作品で求めたものは、1つめに好奇心と想像力をかき立てるコンテンツである「自然」、2つめにその自然を直接体験すること、3つめにその体験を子供と分かち合うことであった。この3つはそのまま英語教育に携わる私たちのあるべき姿勢に共通するはずである。

 The Sense of Wonderでは、森の散歩を通じて、まだ幼いロジャーがいつの間にか動植物の名前を憶えてしまったエピソードが紹介されている。このエピソードについてカーソンは、意図的に憶えさせようとしたことはなく、むしろ彼女自身が、いろんなものを発見しては喜びの声を上げるので、それが結果として「何々?」とロジャーの好奇心をくすぐり、名前を憶えてしまったのだと書いている。自分の経験をもとに、カーソンは、子供と一緒に自然を体験することの大切さを大人たちに説いているのだ。…とここまで書いていてだんだん自分が恥ずかしくなってきた。今まで私は生徒、学生の好奇心や想像力をかき立てるコンテンツを見つけることに腐心してきただろうか。またコンテンツを自ら「体験」し、思わず膝をたたいたり、感動を、哀れみを、怒りを分かち合ったりしてきただろうか。自分のやり方を押しつけてはいなかっただろうか。このコラムがきっかけとなり、The Sense of Wonderを、自戒も込めて読み直しているところである。

岩政 伸治(いわまさ しんじ)
白百合女子大学 准教授 (アメリカ文学、環境批評)
著書に、『英和アメリカ史学習基本用語辞典』(共著・アルク 2001)、『レイチェル・カーソン』(共著・ミネルヴァ書房 2007)、『Different Histories−もう1つの現代アメリカ史12章』(共著・金星堂 2008)、「かしましハウスでイングリッシュ」(共訳『まんがライフオリジナル』 竹書房にて連載中) 等。

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